第伍章 カムイ 3P
勝気な雰囲気を取り戻したブランは、天井を仰ぎ見る。
「……たくさ。ほんとに自由気ままだね。君って奴は」
「ええ。だって俺が尊敬する人も大体そんな人ばかりですから」
「その冗談……笑えないよ。僕の君に対する評価は、既に伝えている筈だ。君が君らしくあろうとしてくれれば、もう一人前だと認めるって」
ランディを真っすぐ見つめ、ブランは力強く頷く。
「僕の願いはずっと変わってない。君が笑ってくれていればそれで良かったんだ」
取り巻く状況が変わった様に見せていただけだ。最初から何一つ変わっていない。ブランの願いは、ちっぽけなものだ。しかしながらそれが一番、難しい。これで終わりならば、誰も苦労はしない。きっとこれからも何かしらの厄災が降りかかって来るだろう。
「そして—— それはこれからも変わらないよ」
「はい……」
だが、ランディは乗り越えて見せた。皆の力を借りる事で。もう、二度と自分一人で抱え込む真似はしない。自分の命一つでどうにかなる問題など存在しないと分かったからだ。
「お願いだから今後は、自分の命を簡単に捨てないでくれ。もう、君の命は君のものだけじゃない。皆のものだ。勝手にどうこうする何て絶対に許されない」
ブランから与えられた最後の課題。その答えをやっと導き出せた。どれだけ遠回りをした事か。されどそのお陰で答えの意味が己の血となり、肉となっている。これまでの様に見て見ぬふりは出来ない。そんな事をすれば、また悲しませてしまう。
「……はい。これでもかって叱られましたから」
「これからの君の選択に期待するよ」
机越しから差し出されたブランの手をランディは強く握る。ランディの決意が遂にブランから認められた瞬間だった。これで体に結び付けられていた操り糸は全て消える。これからは、全て己次第。心強い後ろ盾は無くなった。しかしながらその代わりに一人前として認められた目に見えない称号がある。それがある限り、ランディが間違える事はもうない。
それから元の鞘に収まった三人で穏やかな軽い談笑交えた後、この会はお開きとなった。
「済まない」
ランディが居なくなった薄暗い執務室で長椅子に座るオウルはひっそりと呟いた。既に己の席に戻って書類に目を通していたブランはオウルの謝罪を聞き、苦笑いを漏らす。
「いいや、オウルさんが謝る事じゃない。誰も悪くなんてない。悪いのは僕だった。そうじゃないと僕の気が済まない。だから肝心な事は何も言わなかった。まあ、正確には言えないってのが正解かな? 世界ってのは嫌だね。本当に複雑怪奇だよ」
「そうか——なら良い。だが……」
きっとそれを口にしてしまえば、体の良い言い訳となってしまう。もし、そうなれば己の思考に濁りが生じ、嘘と偽りを挟みこんでしまう。だからブランは敢えて言葉にしなかった。
だから今も言葉を選んでしまう。勿論、それだけではない。ブランがそれを詳らかにして良い立場ではないからだ。その残酷な真実を伝えるか、伝えないか判断出来るのは、この町でたった一人のみ。そう。ランディだけだ。
「だがな。どうやら……私にはまだ知らねばならぬ事があるのだろう?」
「どうだろうね? 僕にはさっぱりだよ」
それすらも答えられない。歯痒い思いを抱えながらブランは、オウルをさらりといなす。
「先程のお前の情緒には、可笑しな所が散見している」
「今更な事を言うね。でも僕は、さっきも言ったけど。絶対に口を割らないぞ?」
「私が直接、彼から聞かねばならぬ事だと?」
「ああ、そうだよ。こればっかりは僕の手出しが出来る領域じゃない」
その絶対的な領域に踏み込めるのは、選ばれた者だけ。だが、その選出に貴賤は無い。ランディが必要であると考えた時が来れば、何れ明かされる日が来るだろう。
「僕に出来る事は、一つ。それを聞いたオウルさんがひっくり返って驚くって予想だけ」
「彼からはもう既に大きな驚きを与えられている」
ブランのからかいにオウルは好い加減、辟易する。されど、そんな場当たり的な問答を駆使してまで逃げようとするブランがオウルの目には異様な光景として映った。
「それすらも霞んでしまう程のものなのか?」
「うん。そうだよ。きっとそう」
事と次第によっては。いや、必ず霞む。この町へ転がり込んで来た何処にでも居そうな青年が生ける伝説として語り継がれる権能を所持している事など、誰にも想像出来ない。
「そして。オウルさんがそれを知ったら僕と同じになる」
「そうか……」
そして、その栄光の裏に隠された悲しき宿命を知ってしまえば。間違いない。
それを知れば、オウルもブランと同じ愚行を侵すだろう。
「ほんとはさ……僕なんかが評価して良い存在じゃないんだよ。それをどう考えたらあんな風な言葉が出て来るんだ。どうかしてるよ、あの子は」
何処までも自由な青年に翻弄されてばかり。しかもその真っすぐな感情をぶつけて来るのだから手に負えない。だから目を離せない。余計だと分かっていても干渉してしまう。
「純粋にお前を目指すべき大人だと思ってくれているのだ。ありがたい事じゃないか」
「そう言うもんかね?」
「そう言うものだ」
それだけブランがランディを目に掛けている事を改めて知ったオウルは、立ち上がるとブランの前まで歩み寄り、頭を下げる。
「もう一つ、お前に謝らなければならぬな。私は……お前の覚悟を知らなかった」
書類から目を離し、ブランも立ち上がるとオウルの方へ手を置いた。その片鱗を知ったのであれば、オウルにも伝えねばならぬ事がある。それはとても大事な事だ。
「謝られる謂れは、無いよ。だって本当に人道から反していたんだもの。自分でも分かっている。あの言葉は、人として最低最悪だった。寧ろ、オウルさんが怒ってくれたから僕は救われたんだ。寧ろ、感謝したいくらいだ。だからオウルさんには、僕と同じ轍を踏まない様に言っておくね。実はあの時……僕の命、呆気なく消し飛んでたかもしれなかった。良かったよ。代価が僕のちっぽけな覚悟だけで済んだから。安いもんだ」
「っ!」
オウルの肩に添えられたブランの手は震えていた。その震えを感じたオウルが顔を上げるとブランの顔は恐怖で引き攣っている。あの日の記憶を呼び起こすと震えが止まらない。
超えてはならない一線を超えてしまった代償がこれなのだ。
「ランディへ脅しをかけた時、僕は肝が冷えた。冷や汗かきながら総毛立ったのは、嘗てない。圧倒的な力を前にした無力さとあんな恐怖心を抱いたのは……何があった何て野暮な事を聞くのはナシだ。命のやり取りの話をしたんだから」
「……」
どんな時でも自信と余裕を持っていたブランでさえも敵わない。そんな存在が居ると考えてもいなかったオウルは、動揺する。冷や汗を拭いながらブランは、震える己の右手を左手で撫でながら顔に作り笑いを張り付ける。
「オウルさん、ランディがそんな危ない橋を渡って何になると思っているでしょ? そんな詰まらない心配は、要らないよ。殺人鬼のお尋ね者に何かならない。何せ、僕を殺めたとしても自然死に偽装出来るんだから」
「そんな芸当……」
「出来るんだよ。それが」
どうとでもなってしまう。それこそ、世界の理を捻じ曲げてしまう芸当でも。ランディには、出来てしまうのだ。だから舐めて掛かってはならない。如何なる理由があったとしても。如何なる地位や名誉があったとしても。古の時代から語り継がれる絶対的な『力』に逆らってはならない。その教訓をブランは身をもって思い知らされた。




