第傪章 夏を惜しむ音 7P
「む……」
「む?」
「んっ!」
「ん?」
互いに不愛想な挨拶を済ませると何やらフルールが目で訴えかけて来る。だが生憎、ランディにはその意図が全く伝わって来ない。珍妙な鳴き声にランディが首を傾げているとフルールが目線を下げながら前掛けを弄り始める。
「何か言う事……あんでしょ?」
「今更、可愛いって言ったって面白く無いだろう? ずっと前からそれとなく言ってるし」
「……馬鹿なの? 死ぬの?」
珍しくフルールがか細い声でしおらしい事を言うのでランディは、更に首を傾げた。その様子を見てフルールは怒りで腸が煮えくり返る。流れるような動きでランディの背後を取り、間髪入れずに腕を回して首を取った。
「とても—— 見目麗しゅう……ございますっ! やめてっ! くびっ、取らないでっ!」
「何回言っても減らないし、増えない。満足もしない……何回もだって」
「言われたいのかい?」
「……」
ランディは早々に降伏を認める。しかしながらそんな誉め言葉も形骸化してしまっている。最早言葉にする必要がないとランディは思っていた。勿論、その言い分が言い訳になるかと言えばならない。じっとりとした視線を向けて来るフルール。さてどうしたものか。
「そう言ったって服装は、普段と同じだし……」
ランディは目を皿にしてフルールの姿を眺める。安易に目新しい容姿を指摘した所で単なる付け焼刃に過ぎない。とは言ってもこのままでは、フルールの機嫌が戻らない。
「でも今日は……香水の匂いじゃなくて髪から香ばしい匂いがするなあ」
「嗅ぐな」
気安く頭頂部の匂いを嗅ぐランディの顔を右手で押しのけるフルール。
「これでも仕事……頑張って終わらせて……急いで来たの……」
「そんな不貞腐れた顔で言わないでよ。今日は散々、甘やかさないといけないじゃないか」
「普段から甘やかして……どんな時でも」
不貞腐れたフルールの言葉が引き金となり、ランディの心拍が急激に上昇して行く。これだ。ルーにも相談していた得体の知れない何が的確に己の胸へ刺さり、調子を狂わせる。
逸る気持ちを抑えつけつつ、ランディは動揺を隠そうと画策する。
「今日は、一段と攻めて来るなあ……其処らに転がってる雑兵なら一発で心臓を射抜かれてる。末恐ろしい話だ……絶対に他の男にそんな顔見せちゃ駄目だよ?」
「珍しく独占欲?」
「……どうなんだろう? 確かに可笑しいなあ。いつもの俺なら絶対に言わないね」
「あたしが聞いてんの」
香ばしい匂いがするのは、自分だった。まんまと墓穴を掘り、ランディは更に焦る。以前の自分であれば、こんな無様を晒す事など無かった。心と思考の均衡が崩れている。より良き答えを導き出そうと奮闘した結果、全てが裏目に出てしまっている。
「分かんない……でも確かに心からの言葉だとは認めるよ。衝動的に口走ってたから間違いない。それがどんな感情から来てるかは……判断が難しいね」
誤魔化すしかない。認めてはならない。感情の全てを思考が遮る。一歩手前で踏み止まろうとするランディにフルールは胸元を掴んで顔を引き寄せ、唸る。
「こういう時は……素直に認めんのっ!」
「はいっ! 左様に御座いますっ!」
「……」
「そう言えば……気になったんだけど」
「……あによ?」
吊り上がった茶色の瞳は、暫く元には戻らない。ランディは、ご機嫌取りを諦めた。そんな痴話喧嘩の最中。ランディは、一つだけいつもとは違う変化に視線を奪われた。最初は気にも留めていなかったが、じわじわとその違和感が己の胸を焦がすのだ。その感覚は、まるであの日の鮮烈な一戦に感じた焦燥感と雰囲気が似ていた。
「そのリボン……祭りには似合わないよ。黒ってさ。もっと華やかな色でも——」
「今日は……そんな気分だった。それに音楽を楽しむ祭りよ? 落ち着いた格好で良いの」
「まあ、俺が無理強いする事でも無いか」
「そうよ」
勢いで誤魔化そうとするフルール。だが、きっとそれは気の所為ではない。何故か、その真っ黒なリボンから微かに己の名残が感じられたからだ。
「気安く触るな」
「いてっ……何処かで見覚えが。ダメだ。気になって仕方が無い」
「大袈裟ね。いちいち気にする事も無いでしょ? 早くいこ」
ランディは無意識うちに手を伸ばし、そのリボンに触れようとしていた。だが、又もやその手はフルールによって振り払われる。その瞬間、違和感の正体にやっと思い当たった。
「いや……まさかね? もしかして……それって俺が台無しにした奴じゃない?」
「……違う」
まるで悪戯をした子供の様なきまりが悪い顔をするフルール。思わず、ランディは左手で目元を覆う。それまで流れていた穏やかな空気が一掃され、ひりつく緊張感が辺りを満たす。
言いたい事は、山ほどある。だが、今は説教をしている暇ではない。
「そうか……態々、染め直してまで。似た様なものならいっぱいある……これからお店へ買いに行こう。欲しい色があったら言ってくれ。白でも黒でも赤でも青でも。何本だって君に買ってあげる。だからそれを俺に渡してくれ。それだけは、君が持ってちゃいけないものだ」
「……これで良いの。これが良いの」
そのリボンは、己の血で汚れたあの日を象徴する忌むべきものだ。フルールが持っていて良いものではない。フルールに悪影響を与えるだけで何一つ良い事は無いとランディには断言出来る。されど、ランディの提案に対してフルールは首を横に振るばかり。
「ちっとも良くなんてない。駄目だよ。今直ぐ外しなって。そんな血生臭いもの——」
「やめてっ! 触んないでっ!」
差し出されたランディの手を拒むフルール。其処まで意固地になって固執するものでは無い。多少の思い入れはあるのかもしれないが、そもそも単なる布切れであって価値は無い。
「……ごめん。悪かった」
あの騒動のどさくさに紛れて紛失したものだとランディは、思っていた。それが何故、フルールの手に渡っているのか。ランディには皆目、見当もつかない。
「一体、誰が……君にそれを。てっきりあの時、無くなったものだと」
「誰でも良いでしょ? そんなの」
「今となっては……聞いても仕方がない。でもそれは……君の手に渡っちゃいけなかった」
「……何で? あたしのもんでしょ?」
「分かっているだろう?」
「分かんない」
清廉潔白な彼女にはふさわしくない。ランディはそう思っている。どうしてもそれをフルールには持っていて欲しくなかった。例え、今にも泣き出しそうな程、フルールが瞳を潤ませていたとしても。出来れば、穏便に済ませたい。ランディは、継続して説得を試みる。
「それが……それが俺の業を象徴するものだから」
「よそ様のものまで自分のものだって言うの? 随分と業突張りね」
「笑えない冗談だ。惚けるのも好い加減にいてくれ。俺の言いたい事……分かるだろう? 何と言われても構わない。それは、君に相応しくない」
「何であなたが決めるの? 全部、あなたの言う事に従わないといけない? あたしは、気に入ってるの。全部、ひっくるめてあたしのものなの」
「……それは、違う。君がこれから歩む道のりにそんなものは要らないと言っているんだ。君は……陽の光に照らされた誰もが羨む素敵な人生を歩む。それは、決定事項だ。例え、君が何と言おうともそれは邪魔にしかならない。俺は、アンジュさんと約束したんだ」
「あたしが何をしようと。何処に行こうともあたしの勝手。あなたに決められる謂れは無い。どんな目に遭ってもあたしは、受け入れる。あなたが誰とどんな約束をしたとしても」




