第傪章 夏を惜しむ音 5P
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その日の夜。休日を存分に満喫したランディは、カンテラの灯りに照らされた薄暗い自室で二振りの剣と向き合っていた。片方は、己の愛剣。手入れはしているのだが、抜き身の刀身は傷つき、所々欠けており、握りの革も劣化している。それらは全て切り抜けて来た戦の証。恥じるものは何一つない。一方、もう一本は刀身が半ばから砕けたアンジュの剣。ランディの剣とは対照的で握りには使用感があるも鍔や刀身に傷が一つも無い。折れているのが信じられない程、素晴らしい状態だ。
唯一、二振りの剣に共通しているのは、鍔に埋め込まれた傷一つない石だけ。混じりけの無い紅と蒼は、持ち主の意思を象徴するかの様に輝きを放ち続けている。
「さて……どうしたものか。俺は、迷っているんだ。アンジュさん、相棒。俺の相談に乗ってくれるかい? どうにも答えが出そうにない」
逆向きで椅子に座るランディは、ウヰスキーの酒瓶を片手に剣へ静かに語り掛ける。
「って言っても単なる現実逃避なんだけどね……誰も答えてくれる筈がない」
結局のところ、答えを出せるのは己だけ。この時間も言ってしまえば、己の中で整理をする為に設けたのであり、本当に剣へと答えを求めているのではない。
そして核心である悩みの種は、一つ。それは。
『これからの自分の身の置き方』
それが分からなくて悩んでいる。胆略的な表現をすれば。今のランディは、一度死んだ身であると言っても過言では無い。これまで持っていた矜持を根こそぎ捨て去り、また新たな何かを携えて生まれ変わった。だが、その何かは不完全で安定して居ない。寧ろ、これまでの矜持の方が極端に一つの境地を突き詰めた結果なので幾分か洗練されており、安定もしている。それこそ、手放した誓約が恋しいと思ってしまう程に心許ないのだ。
「どうしたものか……全く見当がつかない」
皆は言う。全ては、自由意思の下にあると。だが、ランディには到底そうは思えない。
『とても居心地が良いのは認める。願えるなら何時までも続けていたい。だけど、こんな穏やかな日々を過ごして本当に良いのだろうか。言ってしまえば、堕落している様に感じているんだ。これまでの過ごして来た環境との温度差に戸惑っている。もっと言えば、己が課した使命と犯した罪。そして本来、全うするべき与えられた役名から逃げ出している』
瓶から琥珀色の液体を少し体に取り込むランディ。喉を焼かれる感覚と共に樽の香りと強い酒気で頭が一気に翻弄される。飲み込まれぬようじっくりと目を瞑り、情報の洪水を耐えると残り香の様な甘い余韻が最後に残る。
「今までは……それらに縛り付けられて身動きが取れず、死を身近に思っていた。けど、それは違ったんだ。多分、それらが最も俺を死から遠ざけ……生かし続けてくれた」
振り返ってみれば、死地からいつも己を救ってくれたのは忌み嫌っていたその戒めだった。相対した不遇に抗おうと必死になった結果が今である。ならば、その戒めこそがランディの全てである。安易に放り出すのも考えもの。しかしながらしがみついていれば、何時の日かその戒めに食い殺される未来が確実にランディを待って居る。
『今の俺は、本当に空っぽだ……本当に捨てて良いものだったのか迷ってしまう位に。生きる原動力って言い方は、可笑しな話だよね? でもそれに近いものだったのは間違いない』
後退は許されない。只、前進あるのみ。逃げ場は何処にも無い。
「今度は、何をすれば良いのだろう。このまま、無為に時間だけが過ぎてしまうと考えると……怖くて仕方が無い。少なくとも未来の俺が後悔しない為にはどうすれば良い?」
漠然とした不安だ。己がこれから生に対してどう向き合って行けば良いのか。このままでは、悪戯に時間だけが過ぎて行くだけ。即ち、生きながら死んでいると同意。必死の問い掛けも空しく、二振りの剣は答えてくれなどしない。
「答えなんて誰もくれない。今を懸命に生きろって言われてばかりだ。分かってる。分かってるんだ。何となくそれが正しいって事は。本当は、見えない筈のものまで見えてしまう。見なくても良いものを見てしまっている事が間違ってるって」
ランディの言葉へ呼応するかの様に自然と虹彩が蒼く染まって行く。同時に室内にも蒼い粒子が漂い始める。段々と力が解放されて行くにつれ、本来ならば見えない筈のものが。聞こえない筈のものが。臭いとして嗅ぎ取れないものが。触れられない筈のものが。感覚として直に伝わって来る。それらは、決してまやかしではない。
「でも見ない振りをしたって見える。聞こえて来る。臭いだってする。触れている様な感触だって。それは、きっと空想なんかじゃなくて……現実に起こっている悲劇そのものなんだ」
今、目を背けようとした所で逃れられない。この生が続く限り、延々と付き纏う。
『この目は、何の為に与えられたんだ? この目が無ければ、俺だって……』
たった一人が背負うには、無理がある。宿命と呼ぶには、あまりにも酷だった。
「普通の一生を送れたかもしれないのに——」
そんな愚痴が思わず、口をついて出て来る。勿論、人が憂い事から完全に開放される事など、あり得ない。規模が違えども何かに悩まされ続けるだろう。だが、その悩みとは個人の幸福追求にのみ焦点が当てられるものであって此処まで悲惨なものでは無い。
「こんな時には、ゼッタイ現れてくれないよなあ……本当になんなんだよ。あのヒトは」
それも分かっている。かの女史がランディの内面にまで干渉しない事は。突き放されているのでは無く、必要な配慮なのだ。誰かに正論を押し付けられた所で自分が納得しないのは、己が一番分かっている。それが例え、どれだけ聞こえの良いものだとしても。
ランディは、是としない。
『……まあ、言われた所でって話だ』
徐にランディは、アンジュの剣へと視線を向ける。
「貴方も随分と勝手な事をしてくれた……俺に全部、押し付けてさっさと楽になってさ。何が『全部あげる』だよ? 有難迷惑だ。生きてさえくれていれば、俺よりももっと上手くやりくりしていたに違いない。こんな俺に託して良かったのかい? 絶対に無理だよ」
亡き者に不平不満を言った所で何も解決しない。もし、この不甲斐無い状況をアンジュが何処かで見ていたとしたらきっと腹を抱えて笑っているだろう。
『自分の生き方さえ、満足に決められない。こんな俺なんかには、務まらない』
託されたものは、途轍もなく大きく重たい物ばかり。その遺志に報いねば、死にきれない。
「そもそも旅になんてでなきゃ良かったんだ。そしたらこんなにも悩む事も……だって最初は、四年経ったら帰るのだけが目標だった。それがどうだい? 二年経っただけでこの様」
人生と言う長い期間の中でなら一瞬の出来事だ。しかしながらその期間は、とても濃密でどれも心に深く刻まれる出来事ばかり。それこそ、己の選択が間違いだった思うくらいに。
「逆に言えば、自分ってものが無かったから気楽だったんだろうなあ。きっかけが無かったら当たり前に家を継いで。そのまま……年老いて死ぬものだと思い込んでいたに違いない。この『力』の本当の意味する事を永遠に知らないまま」
見える景色も違っていた。それこそ、開け放たれた窓から覗く夜の帳に包まれた町並みも今のランディとは違った捉え方になっていただろう。
「今更だけど、全部を知っていた筈の師匠は、どうやってあんな風に答えを選べたんだ? 使命も矜持も捨てて。全部諦めて……家族を持って穏やかに生きようと考えたんだろう?」