第傪章 夏を惜しむ音 3P
素質は、既に備わっている。後は、それを生かすだけ。元より、心配はしていない。
「そうですね。自分なりに何が出来るか。何をしたいのか考えてみます」
「そうだ。その意気だ」
「まあ、あれだ。複雑な話になってしまったが……私が言いたい事は、たった一つだけ。そう。これだけだ……健闘を祈っている」
「はい。頑張らせて頂きます」
とある青年の背中をとある老人が押し出した話。それは、町の何処にでもある平凡な一軒家で起きた誰も知らない話。それを知るのは、歌う町のみ。久しぶりに町は、歌う。逸る気持ちを抑えながら。早くその時が来いと。
*
次の日の日曜。礼拝が終わり、ランディは一人、エグリースの書斎へ訪れていた。訪れた理由は、過去に己がしでかした失態の後始末。怪我の治癒ばかりが己に課せられた義務ではない。きっちりとケジメをつけるべきであると考え、馳せ参じた次第。既に長い時間が経ってしまった。改めて謝罪に出向いたのは良いが今更、どんな顔をすれば良いのか分からない。シトロンの時には快く助力をして貰えたが、それはレザンが説き伏せてくれたからだ。あのような無礼、本来ならば許されるべきではない。どんな風に自分が思われているか。書斎の扉前で立っているだけでも恐怖で足が竦む。しかしながらこのままでは悪戯に時間だけが過ぎ去るばかり。ランディは、覚悟を決めると扉をノックする。
「どうぞ。お入り下さい」
「—— 失礼します」
室内に居るエグリースから返事が返って来たのでランディは、書斎へ足を踏み入れる。
「ランディ君っ! ようこそ、いらっしゃいました。さあさあ、ぐずぐずしていないで中にお入りなさいっ! 直ぐお茶を用意しましょう。ほら、座って座って」
埃臭い書斎の中で普段と同じ質素な黒の司祭服姿で机に向かい、窓から差し込む陽の光を頼りに書き物をしていたエグリースは、来訪者がランディだと分かると笑顔で迎え入れてくれた。歓迎は有難い。されど、訪れたのは己の禊の為。緩みかけた心を今一度引き締めなおし、ランディはエグリースに深々と頭を下げる。
「ご無沙汰しております。おきづかいありがとうございます。ですが、お茶も椅子も結構です。今日は、改めて……先日、働いた無礼を謝罪しに参りました」
「何を言っているのか全く? 身に覚えがありませんね。ワタクシに君が無礼?」
「そうです——」
「それ以上、何も言ってはなりません。もう、ワタクシは、既に君からきちんと願いを叶えて貰っています。それで十分なのです。だから謝罪の必要はありません」
「……」
「折角、訪ねてくれたのだから……少しお話をしましょう。さあ、座って」
「はい……」
ランディが訪れた理由を理解したエグリースは、穏やかな表情を浮かべながらランディに椅子を勧める。ランディは、断罪を。エグリースは会話を。それぞれの思惑は、合致していない。ならば、始めにその溝を埋めるべきだとエグリースは考えたのだ。
「そもそも何故、ワタクシが君を叱ったり、非難したり、怒らねばならぬのですか? 君がこの町に留まると決めた時から賭けは、ワタクシの一人勝ち。そして、君はこうしてワタクシを慕って会いに来てくれている。それで十分なのです」
エグリースは、全く怒っていない。寧ろ、今此処にランディがこの町に留まっているだけで十分だった。それはあの日、話した時から一貫している。願いが成就している時点でランディが気に病む事は何もないのだと。しかしながらランディは、そう言われても納得が行かぬ。己に対する憤りが断罪を叫んでいる。尤もそれは、単なる自己満足に過ぎない。
「寧ろ、此度の出来事でワタクシの未熟さを痛感させられました。これまで多少ですが、人の為にと様々な善行を積み重ね、求道者としての道を歩んでいると己惚れていたのです」
ランディの目に宿る怒りを見たエグリースは、どう目の前の青年と向き合うべきか考える。生半可な懐柔は、一切通用しない。何よりもこのままでは、自分の言葉が届かない。ならば、包み隠さず己の本心を語るべきではないか。エグリースは、そう考えたのだ。
「そんな事はっ!」
「いいえ、それが事実です。そして、その愚か者は聖職者を名乗っていながらたった一人の青年すら助けられなかった。それが何よりも動かぬ証拠。独善を押し付けてばかりで本質から目を背けていました。君の悲しみ、苦しみを受け止められず、癒せなかったワタクシには、まだ足りぬものがある。それが分かっただけでも大きな前進です」
「……」
それぞれが目を背けていた課題が此度の出来事を起こしてしまった。一方的に誰が悪いと簡単に片づけられる話ではない。もし、罪を償う必要があると言うのであれば、それは己にも等しく分かたれるものだと動揺するランディに、エグリースは説き伏せる。
「同時に君がワタクシとの仲違いをしたあの時。とてつもなく高い壁を越えて来た事も分かりました。ワタクシに出来なかった事を君は、見事にやり遂げた。君の身に何かあった時、次はワタクシが手を差し伸べる番だと意気込んでおりましたが、その足元にも及ばないと悟りました……手を差し伸べるなど、烏滸がましいにも程があると」
「エグリースさんは……とっても立派な御方です。町の皆に道を指し示し、分け隔てなく手を差し伸べていらっしゃいます。そうでなければ、誰も俺に手を貸してくれる事などありませんでした。俺の方が恐れ多いです。何よりもあの時は、司教様の手助けがあったからこそ……俺一人では、何も成し遂げられませんでした」
「君がこんなワタクシにも尊敬の念を抱いてくれるとは、喜ばしい。ですが、違います。君の心が。行動が。町の皆さんと司教の心を動かしたのです。全ての始まりは、君です」
そんな事は無い。自分に力があるとは、ランディは思っていない。寧ろ、そんな言葉を言わせている未熟な自分が恥ずかしくて仕方が無い。これは断罪では無い。エグリースに己の落としどころを作って貰っているだけだ。だが、自然と心に巣食う怒りが静まって行く。
本当は、分かっていた。エグリースが己に対して幻滅もしていなければ、見捨ててもいない事に。何が一番許せないのか。それも分かっている。こんな自分に今でも優しく接してくれているエグリースに対して放った過去の身勝手な言動が許せないのだ。
「挫折を経験した結果……やっと、あの時の何が起きていたのか。事のあらましを俯瞰して見る事が出来ました。言っている傍から痛感しますが、本当に未熟者ですね。もしあのまま、間違った道を進んでいたら何も成し遂げず、自己満足にどっぷりと浸かっていたでしょう。さすれば、オネットの下にも辿り着ける筈が無い。縦しんば、辿り着けたとしても彼女の笑顔を見る事は叶わない。君のお陰でワタクシは、前に進む事が出来ます。本当にありがとう」
「……感謝される様な事では」
憤りを感じる必要は無い。エグリースはランディに訴えかける。その激情が無ければ、己が前に進めなかった。単なる若さ故の過ちでもない。それは人の道を外れず、熱を持った心の叫び。その叫びをエグリースは最も尊重し、生かしたいと考えている。その志こそが痼疾の頂を諦めた先に待って居た新たな希望であり、今を生きる指針となっている。
「ならば、こう結論付けましょう。ワタクシ達は、互いに学ぶべき事を学んだ。優劣がある訳でも無く、正否を推し量れるものでも無い。足りないものを知る為に議論を重ねた。只、それだけの話。それで良いではありませんか?」
「そう—— おっしゃって頂けるなら」
「ふふっ、そうですか」




