第壹章 身勝手な黄金の雨 6P
怒りで見境が無くなり、椅子から立ち上がったランディを見るに見かねて手を翳し、嗜めるルー。だが、ヴァンの真意は其処にあったのだ。
「綺麗事ばっかりで生きていけるなら誰だって苦労はしねえ」
今にも泣き出しそうな血走った眼でヴァンを睨み付けるランディ。その様子を見てヴァンは、鼻で笑う。その醜さこそが人の本性。誰もが生きるのに必死なのだ。己の存在意義を見出す探求の日々。これまで大義名分に縋っていたランディには、その生への執着が失われている。目に映る世界を綺麗に修飾する事こそが使命だと自分へ言い聞かせていたランディにそれを自覚させねばならない。そうでなければ、話が始まらない。
「そうだ。その目だ。英雄」
やっと話が通じると確信を持ったヴァンは、目を伏せながら杯を手に取り、酒を軽く回す。
それから中身を一気に煽り、気合を入れると口を開いた。
「お前が思っている通りだ。正解だよ。言っちまえば、この世ってのは……地獄だ。今も昔も変わらない。少しも変っちゃいない。毎日、毎時間、毎秒。緩やかに誰かが誰かを蹴落として生きている。見えず、聞こえず、触れられる事も無く、臭いも無い。何故なら薄汚れた背景は、偽りの綺麗な何かに上塗りされ、曖昧にぼやかされて感覚も麻痺らされているからだ。確かにそれは、大きな何かに飼い慣らされている事に他ならないが、知らなくて良い事由にはならない。老いも若きも関係ない。小さな事でも大きな事でも……誰かが何かを諦めた犠牲で俺も含めて生きているこの時が成り立ってる。お前さんは、否定したかったかもしれん。だが、その犠牲がなくちゃ絶対に成立しないんだ」
それを知っているから足掻いていた。自分だけは、直視して少しでも苦しむ者が救われればと。だが、無駄だと突き付けられた。その苦しみが分かる筈も無い。しかしヴァンが言いたい事は、そんな事ではない。その地獄を知った上で受け入れろと言っている。例え、世界が非情であったとしても。順応して生きろと。逆なのだ。誰かの犠牲を無碍にしない為に今と言う貴重な時を大切にしろとヴァンは、言っている。
「お前だけが罪を背負っていると思ったら大間違いだ。皆が平等に罪を犯している。なら、その罪を背負ってでも何かを成し遂げろ。勿論、それはお前が捨てたもんの為じゃない」
その足掛かりをランディは、もう手にしている。己の矜持から逃げた訳でも無く、殉じたが故に新たな境地へと至った。だが、このままではその折角の機会も風化して無かった事になる。そうなれば元の木阿弥だ。また、同じ道を歩んでしまう。
「何が正しさだ? 下らねえ。そんなもんが跋扈する綺麗な世界なら薄汚いこんな店で小賢しく日銭を稼ぐ俺が先ず始めに淘汰されている。だが、実際はどうだ? のうのうと生き永らえているだろう? 好い加減、分かれよ」
その通りだ。誰もが必要悪としての業を背負っている。それが大きいか、小さいかだけの話。それら全てを断罪すれば、誰も生きてはいられない。結局の所、その判断基準は個人が持つ独善の域を越えず、目の前のヴァンに対してランディが何もしないのが、動かぬ証拠。
「嘗てのお前が掲げていた理想を貫き通したらきっと誰も生きられない。今のお前は、新たに何かを覚悟したんだろ? なら、それを世界に叫べ。お前なりに出した答えって奴を」
「……」
力無く椅子に座り込んで目元を手の甲で押さえるランディ。
「無理ですよ。そんな事、いきなり言っても」
「いいや、そんな事は無い。此奴は、確かに宣言した筈なんだ。でなきゃ、無様に地べたを這っちゃいねえ。恥も外聞も無く、自分の言葉を覆したんだ。なら、答えを手に入れている」
「まあ、確かに。言われてみれば……」
清濁の見境が無い濁流の中で翻弄されても成し遂げたい事が出来た。それは、他者に強いられたものでは無く、自分で決めた事だ。選んだそれは、もっと小さく目の前にある出来事ばかり。他の者からすれば、取るに足らない詰まらないものだ。その他愛のない出来事以上に尊ぶべきものは何もない。それらに対して真摯に向き合えとヴァンは、言いたいのだ。
ルーもヴァンの見解には、賛同せざるを得ない。
「頭の中がぐちゃぐちゃなんだろ? 楽すんじゃねえ。その混沌とした思考が本来、あるべき姿だ。もっと言えば、普通は下らなくて小さな出来事がきっかけで皆、悩んでいる。お前だけが世の中を大きく見過ぎなんだよ。簡単に纏めようなんて真似すんじゃねえ」
悩んで良いかを悩んでいるのがランディの現状。もし、染まってしまえば全てを投げ出した事になってしまうのではないかと恐れている。しかもこの様な話題は、以前より皆から指摘されている。本音では、分かっているのだ。本当の意味で手放さねばならぬ時が来たと。
「思考を止めるな。考えろ。お前は、手に入れたんだ。だからその事に対して真剣に悩め」
見切りをつけて忘れろ。抽象的な話だが、そんな事を言われた様な気がした。
「今日の所は、このくらいにしてやって下さい……」
「まだ、言いたい事は山ほどあるんだがな」
「これ以上、コテンパンにされたら泣き出します。野郎を慰めるなんて役名御免被りたい」
「そうかよ」
友の肩に手を置き、ルーは苦笑いを浮かべる。こうなる前にどうにかしておきたかった。だが、もう猶予は残されていない。次は無いのだ。もし、このまま放置してしまえば、確実な死が待ち受けている。手荒い治療になってしまったが、良い機会だった。
「別に苦しめる為に言ってる訳じゃない。苦しむ方向性について話をしているんだ。寧ろ、俺との会話に苦しむ方が可笑しいんだよ。自覚しろ。お前は、やっぱり狂ってる」
ランディの立場を理解していない訳では無く、理解した上での言葉だった。
「狂わされた分だけそれを取り戻すのは難しい。だけど、諦めんな。だって手を差し伸べて貰ったんだろ? なら、簡単だ。差し出された手を掴めば良い。それだけだ」
「……はい」
珍しくやり込められたランディを前にしてルーは、目を丸くする。てっきりまだ、ごねるだろうと予想していたのだが、当てが外れた。
「そうだ。もっと簡単なんだよ。難しくしなくて良いんだ」
ランディの肩を軽く叩きながらヴァンは、教え諭す。
「……」
きっと言葉にしなければならない事が。伝えねばならぬ人が沢山いる。その人達の前で胸を張れる自分になれねばならない。勿論、その機会は何時でも何処でも与えられており、後は自分がそうなれればそれで良い。寧ろ、皆がその時を待って居る。憑き物が落ちたランディは、顔を上げてヴァンに弱弱しく笑う。
「まただ。これで二度目だぞ? 俺まで流されて下らん話をした訳だが……次は無い。こんな話よりももっと重要な事があるだろ?」
「—— 急に何ですか? この件以上に重要な事なんて……」
「馬鹿だな。お前までそんなヘタレだったか。ルー。見損なったぞ」
「——」
顔に疲れを見せつつもヴァンは、空気を変えようと別な話題を二人に振る。それは、目前に迫った最重要事項。ぽかんとした表情の二人を前にワザとらしくヴァンは、肩を落とす。
「明日の話だ。明日の話」
「明日? 明日って何かありましたっけ?」
「本当にしょうもないなあ……呆れて言葉も出ない」
「分かりました、分かりました。降参です。勿体ぶって無いで言って下さいよ」
勿体ぶるヴァンにルーは、両手を上げて降参する。ランディも同じく首を傾げた。そこまでヴァンが重要視するその案件が何か、二人は固唾を呑んで待つ。
「明日の夜は、星が流れる日だ」
「はっ?」
「……嘘でしょ?」
「何だ? それ以上に重要な事があるか?」




