第陸章 Kilroy was here. 6P
不安げに見上げて来るフルールに対してランディは微笑み、話を続ける。
「話を戻すけど、その男には、恋人が居た……招集されるまでの間、最後の思い出作りじゃないけど馴染みの料理店で毎夜、楽しく過ごしていたそうだ。彼らは、趣味を通じて出会ったらしい。お互いに興味を持っていたのは伝記や伝説の話、それと妖精の話なんかも」
顔に限らず名も知らぬ昔話の恋人たちの話を聞いても親近感など湧く筈がない。フルールは、夢見がちな青年たちの話に肩を竦める。
「随分と夢のあるお話だこと」
「そんな風に言わない。なにせ、昔って想像と現実の境が随分と曖昧だったからね。それにお互い打算なく、下心も無い関係の下、純粋に時間を楽しく共有出来たから魅かれ合っていたのさ。そう考えてみれば、素晴らしいじゃないか」
「まあ……そんな話なら悪くない」
「だろう?」
人と人との出会いなど、星の数ほど存在する。その中にそんな夢のある出会いがあっても可笑しくはない。寧ろ見方を変えれば、そんな存在に出会える方が稀有と言える。
「そんなこんなで二人は、残された貴重な時間を大切に過ごしていたワケなんだけど……」
「うん」
「遂に召集の前夜がやって来た。今生の別れとなるかもしれないからとその男は覚悟を決め、求婚の申し出をしようとした。勿論、戦地から帰って来れたら……の話だけどね。それでいつも通り、彼女を誘い、店で待って居たのだけど待ち合わせの時間になっても彼女は一向に姿を見せなかった。幾許かの時間が待って居たけど……来なかったから男は、諦めて料理店の主人から許しを貰って彼女のお気に入りだった鼻の長い妖精の絵とこの一文を小刀で机に刻んで店を後にした。削られているのは……名前だね」
「……」
まるで何処かで聞いた事がある様な話。そんな風に惚けられたらどんなに良かっただろう。その真意は、当事者にとってどんな影響を及ぼしてしまうのだろうか。分かっていてもランディは話さずにいられなかった。いや、伝える義務があったと考えるのが正しい。その絵と文字は、フルールに対してアンジュの残した最後の言葉だからだ。
「当日に何があったかって言うと、恋人は不慮の事故で怪我を負って料理店へ来られなかった。その後の話で俺が知っているのは……店主からその彼女へ男がずっと待って居たと伝えられたってとこまでさ」
全てが遅過ぎた話。
『———— 参上』
刻まれた文字と絵の意味が長い時を経て浮かび上がって来る。フルールは、心臓をぎゅっと掴まれたかの様に両手で胸元をおさえた。
「宛ら……今の俺はその店主の役だね。随分と時間が掛かったけど……君にも伝わった」
フルールの瞳から溢れ出す涙。知らぬ振りをしてランディは、思いを馳せる。どんな気持ちでこの絵と言葉を掘り、それから名前の部分を消したのか。されど、どれもランディの想像の域を越えない。亡き者の代弁者になどなれる筈も無い。
「つまる所、これはアンジュさんが君に対して残した言葉で間違いないと俺は、断言する。どんな思いを込めて彫ったかは……分からないけどね」
もしかすると。それ逸話の様に求婚とまでは行かずとも。アンジュがフルールへの想いを伝えたかったのだろう。例え、遠くに離れたとしても。
「でも何か強い気持ちを伝えたかったは……何となく分かるよ」
「っ!」
嗚咽を漏らすフルール。静けさだけだったこの窪地に寂しさと悲しみが満たされて行く。
「……正直に言おう。こんな寂しい景色を見たくなかったから頑張ったんだ」
だからどんな手を使ってでも引き留めたかった。後悔は、今も尽きない。負の感情で気が狂ってしまう一歩手前。ランディは、それらの感情を煙草に火をつけて封じ込める。
「そんな風に……言わないでよ」
「最後まで手を離したくなかった」
「分かったってば——」
涙交じりの声でランディの言葉を遮るフルール。
『ごめんよ、アンジュさん。長い時間が掛かってしまったけど……やっと想いが伝わった。でもね、分かりやすくしないと人って伝わらないものさ』
今にも流れそうな涙をぐっと堪え、心の中でランディは、アンジュへの言葉を紡ぐ。受け入れられた心算でもやはり辛いものは辛いのだ。この感情に片をつけられるのは、沢山の時間を要する。どれだけ時間が掛かるかは、当人ですら分からない。
「っ! 急にどうしたのさ? 苦しいって」
感傷に浸っていたランディは、不意に首元へ強い力と柔らかな感覚に襲われた。その原因は、フルールがしがみついて来たから。よろけ乍らももう一つの丸太に座り込む。後ろで首元に顔を埋めるフルール。突然の状況にランディは、動揺するばかりであやす余裕も見いだせなかった。
「……普通、こんな時って慰めるもんでしょ? 男なら……男ならきちんとやってよ」
「残念ながら亡くなった人の前でいちゃいちゃする気にはなれないね。よく物語に出て来る二人で勝手に盛り上がっているやすっちい話があるけど、どうにも違和感が酷くてね」
かける言葉など、見つからない。代わりにランディは本心を語る。他人の悲しみを誰かが癒せる訳がない。それは、寄り添った気でいる驕りに他ならない。自分は、そんな安っぽい男になりたくはないとランディは思う。
「何よそれ……」
この期に及んで理屈を捏ねるランディに対してフルールは拗ねる。もっと言葉を選ぶべきだったかと、ランディは少し頭を捻るも自分の想いが先行してしまう。何故なら嫌だったからだ。それだけは、はっきりと分かる。
「だって自分の事として置き換えたら嫌だもの……もし好きだった相手が自分の墓標の前で別の男と慰め合う姿をさ……指を咥えて見ているだけなんて……とってもじゃないけど耐えられない。想像もしたくないよ」
尤もこれも勝手に代弁者として名乗り出て想像した驕りに過ぎない。アンジュの本心など、もう何処にも無いのだから。しかし二人の事を想うのならばそれが正しいとランディは、信じている。そもそも自分がこの物語で特別な役割を与えられていると考えていない。
「君は、一人できちんと悲しむべきだ。俺が間に入る余地は無い。アンジュさんの事を思ってあげて。そうじゃないと俺がアンジュさんに盛大に怒られちゃうよ」
登場人物は二人だけ。そんな物語であって欲しいとランディは願う。
「勿論、それは俺も同じだ。旅立った友に対して真摯に追悼したい」
「……」
それでも後ろから抱き着いたままのフルールにランディは溜息を一つ。何かに縋りたいと思ってしまうのは、誰もが同じだ。されど、本当に自分で良いのだろうか。そんな事を考えても此処に居るのは、自分とフルールだけ。
『全くもって俺も甘いなあ—— アンジュさん少しの間だけ目を瞑ってくれ』
心の中で謝罪をし、ランディはそっと後ろのフルールの頭を撫でる。盛大に泣き出したフルールをランディは、あやし続ける。
「悲しいね……どうしてこんな悲しい事が無くならないだろう」
「そんな事言ったって無くならないものは、無くならないの。お願いだからそんな大層な事……言わないで。あなたまで居なくなったら……あたしっ——あたし——」
「そうだね。ごめん」
やはり、かける言葉などない。どれも欠けていて何かが足りない。
「もう、追い掛ける事なんてしない。しっかりと地に足をつけて自分の道を歩むよ」
無いものだらけの話に終わりの約物を。そう。終止符を打つのだ。これから先に続くのは、終わりない希望に満ちた物語にしなければならないのだから。その語り部として役割を与えられた責任は重い。全う出来るかも定かではない。されど、同じ場所へ旅立つにはまだ早過ぎる。それだけは、ランディにも分かっていた。
『当分、アンジュさんの下へは行けそうにない。少し寂しい思いをさせてしまうけど、待ってて。必ず逝くから。代わりにその時が来たらどれだけ語っても語り切れないほど……見上げ話を用意しておくからさ。楽しみにしておいて』
これは。この一幕だけは歌う町すら知らない物語。それぞれの想いを秘め、物語は続く。
おわり




