第伍章 Receptionist 10P
様々な事情が重なって有耶無耶になったとしても反故にされる事由は無い。これは、二人の間の問題だ。少なくとも願いに対して完璧に答えずとも納得出来るだけの何かを求められている。その義務は、ランディがきちんと履行せねば。
「そうだね。分かった……俺の視線全てを奪ってよ」
「馬鹿ね。これまで数え切れないほどあった筈だけど? 忘れたとは言わせない」
「確かに……ってそうじゃない。違うんだ。確かに要所、要所で君の魅力に目が釘付けになった事は認めよう。でもそれって俺が単純だから君の表面的な部分だけに焦点を当てていた訳で……今度は、別だ」
「つまり何が言いたいワケ?」
しどろもどろにランディへ詰め寄るシトロン。勝気な瞳にランディは心底、参ってしまうがこればかりは譲れない。一呼吸おいて姿勢を正し、ランディはしっかりとシトロンを見据える。この場に相応しい言葉を。自分なりに誠実な答えを出すべき時だ。
「俺の頭のてっぺんから足のつま先まで君で埋め尽くしてくれ」
自分から誰かに願った事は無い。寧ろ、願われた役割を演じて来た。故に自分が求めているものが分からない。だからランディは、教えて欲しかった。心動かされ、己が求めたいものが何かを。それを体現して欲しいと願ったのだ。
「それだけじゃない……今度は、生半可な行動も言動もナシ。全力で君にぶつかって行く。情けない所もだらしない所も全て曝け出す。それが俺に全てを曝け出してくれた君に対する礼儀だ。それでも……それでも俺で良いって言ってくれるなら」
必死に取り繕って虚構の自分を現実に投影して来た訳だが、それをかなぐり捨てても変わらずにいてくれたのなら。そんな己の存在の全てを肯定し、求めてくれるなら。自分に足りていないものを補ってくれると同等に自分も相手の足りていない部分を補おう。
つまり、ランディが何を言いたいかと言うと。
「君に俺の全部を差し出すよ。これでどうだい?」
「二言は無い?」
「ああ、勿論」
「分かった。その賭け、のったげる」
「君ならそう言うと思ったよ」
他責の関係ではなく、自責の関係。己がその手を引いて自分のものにしたい。どんな手を使ってでも手に入れたい存在になって欲しいと願ったのだ。自信満々で挑戦的な表情を浮かべるランディに対してシトロンも不敵に笑う。
「忘れてた……後、一つ。君に願っても良いかな? これも君にしか出来ない事だ」
この際だ。願いを叶えると言ってくれるならランディは、もう一つくらい我儘を言いたかった。それは、壊れてしまった関係の修復。己が発端になった仲違いに終止符を打ちたかった。もし、了承して貰えるならこの町は元通りとなる。
「なに?」
「フルールと——っ」
「それ以上言ったら分かってる?」
「分からない」
虚ろな灰色の瞳の視線がランディを射抜き、冷え切った低い声が夏の陽気を掻き消す。
「それはあなたには関係が無い事。例え、あなたが戻って来ようとも……それでも許せない。ほんとは、殺したいくらい憎い。この恨みは消えないの」
「そうか……」
触れてはならない逆鱗だった。ランディの生死が論点ではない。その過程がより問題を複雑化し、二人の間で埋まらない溝を作り上げた。シトロンからしてみれば、その機会は何度も与えられていたと認識している。折角、与えられた全てを無碍にしたのだから相応の対価を払うべきだと考えていた。それは今も変わらない。例え、ランディを前にしても。
「なら俺のやるべき事は、先ず二人の——っ」
「そんなもの望んでない」
胸倉を掴んで揺さぶり、ランディを黙らせるシトロン。
「ほんとに分かってる?」
「もう、分かった。ごめん。俺が悪かった。深刻なんだと理解——っ」
「此処に来る事も……近寄る事すら許せない。おめおめとどのツラ下げて……でもそれは、あなたの決める事。だって一番の被害者はあなただもの。だからこれでも我慢してる心算。本当に本当よ? ただ、私とアレの話ならそれは別」
介入する余地は無い。シトロン自身にもこの決別に対する解決法が分からないのだ。そして、解決する心算も無い。何よりも恐れているのがシトロンとフルールの問題が新たな火種になる事。それが原因でランディの身に何か起きてしまえば元も子もない。これまでの時系列を見ればそれは明らかだ。気が付けば、何かしらの問題に首を突っ込んでいて最後には渦中の中心に居た。その結果、散々な目に遭い続けている。何度も運良く切り抜けられてきた訳だが、何時までも続く筈も無く。その運も尽き掛けている。前回も今回も危うく命を落としかける所だった。恐らく次は無い。だから自分の身を案じて欲しかったのだ。
「……もっと言葉を謹んで」
「はい……分かりました」
例え、些細なきっかけでも簡単に消えてしまう。それを嫌と言うほど、痛感させられた。胸倉から両手を離し、今度は頬を挟んでじっと茶色の瞳を見つめるシトロン。
「まあ……これくらいにしてやれ。シトロン。病み上がりにもなってないんだ」
「むっ」
レザンには、シトロンの言い分を理解している。だからと言って急いても相手は、怪我人だ。何よりも優先すべきは、療養。どうせ、ボロボロの体で出来る事など、たかが知れている。二人下へ歩み寄り、ランディの様子をつぶさに観察するレザン。
「それよりも飯はどうなんだ? きちんと食べたのか?」
「はい、療養食をきちんと食べきるまでミロワさんに監視されてました。正確には匙を強引に何度も何度も口の中に突っ込まれましたけど」
「なら大丈夫だな……」
生気の戻った顔色を見てレザンはほっと胸を撫で下ろし、ランディの肩に右手を置く。この数日間、いつ何時訃報が届くのでは無いかとレザンも夜も眠れぬ日々が続いていた。それは疲れの滲み出た顔から伺い知れる。
「本当に……」
「済みません。折角、ご尽力頂き、我儘を言うだけ言って心配を掛けて」
「いや、良い。良いんだ。お前が生きてくれればそれで。私も同罪だ。お前の背中を押した私に責任がある。ルーが尽力してくれたから今があるのだ。だからお前を責める心算は無い」
「本当にご迷惑を……何とお詫びをすれば」
「お前が謝る事でない。ただ……生きた心地がしなかった」
「……」
叱られるよりも。悲しみの表情が何倍もランディには堪えた。自分の行動が如何に浅はかであったか思い知らされる。勿論、そんな後悔も今となって遅い。二度とこんな思いをレザンにさせてはならない。今後の戒めとしてランディは、心に刻む。
「こうやってまた、きちんと話が出来れば。それで私は、満足だ。他は何も要らない。これこそが私の望んでいた事。このありふれた日常がどれだけ大切であったか……忘れていた。お前の事を考えていた心算だったが、私も大切な事を見失っていた様だ。私自身の願いをな」
「こんなもので宜しければ……幾らでも」
「そうだ。こんな事が何よりも大切なのだ」
恐る恐るランディが答えるとレザンは、穏やかに微笑んだ。
「今ならきちんと言える……ランディ、私の願いを聞き届けてくれるか?」
「ええ。俺に出来る事であれば何なりと」
「契約は、破棄だ。もう、死を選ぶな。頼むから生きたいと願ってくれ」
「……」
「どんな事があろうとも私に辛い思いをさせないでくれ」
「……分かりました」
その言葉は、とても重かった。どうか、無事に戻って来いと何度も願った。それが叶った今、レザンにはもう何も願う事は無い。されど、もし。もし、もう一つちっぽけな我儘を言っても良いならこんな下らない日常がずっと続いて欲しいと願っている。
「もっと早くにこれを伝えれば良かったのだ。私は、間違わずに済んだ。だからこれからは、お前も間違えないでくれ」
それはランディにしか出来ない事だ。けれども常に誰かと手を携えている事が絶対条件。だから今度は、レザンも絶対に手を離さない。
「はい……肝に銘じます」
もしかすると歪かもしれない。何故なら正しさを捨てる事になるからだ。これからランディは、自身の生存の為に不正にも目を瞑るし、きっと間違いを犯すだろう。だが、それは悪ではない。こんな日が続くのならば、誰が何と言おうと。
レザンは、正しいと言い続けるだろう。




