第伍章 Receptionist 9P
本音を言えば、もっと怒られて拳骨の一つも覚悟していた。温かい出迎えにランディは、ほっとする。やっと自分の居場所に帰って来た様な気がした。
「もう……ダメかと思った。目が覚めないんじゃないかって。何度も……」
震えた声で呟くシトロン。フルールと同様に随分と心配を掛けてしまった。こんな事なら二人にだけでも伝えて貰った方が良かったかもしれない。
「まだ、覚悟が足りて無かったみたいだ。それにあの時、朧気だけど……色んな人から引き留められたから……だから戻って来れた」
「っ!」
胸元に顔を埋めたままのシトロンにランディは、恥を忍んで己の過ちを告白する。これまでの主張から真逆の事をしているのだ。しかも周りからの説得を押し切ってまで我を通そうとしたにも関わらず、戻ってきているのだから情けないにも程がある。
「これでも恥ずかしくて仕方が無いんだ……あれだけ見栄を張っておいておめおめと帰って来てるんだから。恰好がつかないにも程があるよ」
「そんなもの……格好良くなんかないっ!」
もっともそれは、ランディの主観から見た己の現状であってシトロンからしてみればふざけた戯言に過ぎない。おざなりな言い草に顔を上げたシトロン。少し化粧が落ちた顔と吊り上がった灰色の瞳から怒りの感情が伝わって来る。
「命、代価にして張る見栄なんてっ! ふざけんじゃないわっ!」
「そうだね。君の言う通りだよ」
当然だ。詰まらない意地で命を軽んじるなど、あってはならない。例え、どんなきっかけであっても。生きて欲しい願った者に対する冒とくに他ならない。
「本当にごめん。そもそも君の言葉にもっと耳を傾けるべきだった。言い訳のしようもない。でもね……ふざけてた訳じゃない。間違っていたとしても全力で頑張ったからまた、俺の居場所に帰って来たいと思った。この言葉だけは嘘偽りない」
避けられぬ因果によって捻じ曲げられた。だが、最終的に選んだのは、自分自身。他の者ならもっと上手く折り合いをつけられたのかもしれない。されど、それはランディにとって蟠りを残す結果となっただろう。何故ならこれまでの過程があったから向き合えたのだ。
「やっと向き合えたんだ……アンジュさんと。そして、さよならも出来た。だから今度は、きちんと皆と向き合える。目の前で起きた出来事や先の事ばかりが気になって仕方が無かった。でもそれだけじゃあ、駄目だと今回の事でイヤって程、思い知った。もっと、目を向けるべきものがあったんだ。それは目の前に居る俺を心配してくれた人達の事だ」
そしてこれからは間に何かを挟むお為ごかしではなく、人との関係性を大切にすると誓った。勿論、それには自分を大切にする事も必要だ。蔑ろにした所で何も解決しなかったばかりか、不幸にしてしまったのだから。
「それは……君も例外じゃない」
その戒めは、シトロンの心に深く響いた。
「でもこれも間違いなのかもしれない。結局のところ、俺にはまだ何も正解ってヤツが何かって分からないままだから。でも—— それを許してくれるなら……」
虫の良い話だとは理解している。本当に自分が発言した言葉すらも完全に理解しているかと言えば程遠いのかもしれない。しかしながら恩に報いるにはそれしかない。
「きちんと自分の事を大切にして……それから俺の先に居る大切な人も大切に出来る」
「今更よ……そんな言葉。信じらんない」
これだけやらかしたのだから信頼など零に等しい。だが、それは零を振り切った負の数からの始まりではない。贖罪から始まるのではなく、証明し続ければ良いのだ。
「大丈夫。零からの始まりは得意だから。また、一つずつ積み上げるさ」
この町へ訪れた時から。いや、その前からずっと同じだ。その度に何かしら間違えている。
「最初は、本当に何もない所から始まったんだ。俺は、世界で一人ぼっちだって考えてた。でもそれから人と歩む事を学んだよ。その為には自分が何をすべきか考えて行動した。そして、結果ばかりを気にしてもその先に自分が見たい景色が無い事も理解した。だから次は、もっと別な事を……そうもっと別な何かを新たに」
でもその度に新たな価値観に到達出来た。今度も同じだ。正解が無い事など、最初から知っている。それでもシトロンとの間に形は何であれ、作り上げねばならぬものがある。これまで共に積み上げた者達と同じ様に。
「きちんと間違いは、間違いだと認めて先に繋げるよ。だから見てて。次はもっと、何か別な景色を描いて見せるから……君が気に入るものかは分からないけどね」
少なくともそれは、希望が伴った何かで誰かの願いによるものでもなく、自分が願うもの。
「もう、誰かの願いを叶えようだなんて身の丈に合わない大それた事は言わない」
自分のしでかした尻拭いすら出来ない若造が背負うには、あまりにも大き過ぎた。小さな希望が寄り集まって出来た醜い化身が何かは、自分が誰よりもよく知っている。嘗ての自分がそうであったから。その恐ろしさを誰よりも知っている。
「随分と遠回りをしましたが、レザンさんのおっしゃっていた事がやっと分かりました」
「そうか……なら私から言う事は、何もない」
レザンの願ったランディの姿がそこにはあった。湧き上がる強い感情を深く目を瞑って堪えるレザン。しかしながらその皺が寄った目尻には、雫が一つ浮かんでいた。
「今度は、俺の願い事を考えてそれを叶えるよう頑張る」
「なら……誰よりも最初に教えてよ。その願い事」
流れる涙は、いつの間にか止まっていた。シトロンは微笑みながらランディの言葉を期待して待つ。きっと、それは素晴らしいもの違いないと信じていた。
「うーん。それは、まだ考え中かな? それよりも今日まで頑張って来た訳だから少し羽を伸ばしたい。体の自由がきくなら遊んで回りたいのだけど……無理だね。と言うか、今は何でも良いから我儘を言いたい。脂身たっぷりの肉と酒を心行くまで堪能したいとか、寝るのは飽きたから煙草を延々と吸いたいとか。何人もの女の子を侍らせてちやほやされたいとか。とてつもなく下世話な奴を片っ端から熟したいところだけど?」
やっと一つ成長したかと思えば、直ぐに見当違いな事をのたまう。この場で言うべき事は、もっと格好がつく事でも良かった筈だ。散々、格好をつけようとやっきになっていた癖に今更になって空気も読まず幼稚な願望を。呆れを通り越して再度、怒りが再燃するシトロン。
「……詰まらない。下らない。しょうもない。却下」
「折角、きちんと考えたのに? だってそういう事だろう?」
確かにそうだ。分相応で俗物な人らしいと言えば間違いない。だが、敢えてこの場で宣言する事でもない。ましてや、あれだけ立派な事を捲し立てておいてこれでは、腑に落ちない。
「違う。そうじゃない」
片眉を上げて怪訝な表情を浮かべるランディに対して不服そうに唇を硬く結び、頬を膨らませるシトロン。まさか、こんな場面に出くわすとは思ってもみなかった蚊帳の外のレザンは、気まずそうに右手で頬を撫でる。
「ならどう言う話なのさ?」
好い加減、馬鹿なのも大概にして欲しい。この調子なら交わした約束も忘れているに違いない。まどろっこしいやり取りは、もう飽きた。分かろうとしないのならば、分からせるしかない。レザンが居るにも関わらず、シトロンは大きく一歩踏み込む。
「……誰でもない。私に願ってよ。私にしか出来ない事を」
「また……難しい事を」
「散々、振り回したあなたにそれを言う権利は無い」
「確かに……」




