第伍章 Receptionist 8P
「まだ……明けてもないでしょ」
「確かに……まあ、今のところは急いでやる必要も無い。ゆっくり解決して行くよ」
とは言っても怪我と疲労の度合いが尋常ではない。それは、指摘されるよりも自分が一番、よく分かっている。戻って来たのは悲しませる為ではない。それに先ずは、目の前の問題を解決したかった。
「だからさ。今の間だけは、顔を見せて。これでも君を俯させる為に頑張ったんじゃない。俺……だけじゃない。アンジュさんの為にも君には前を向いて欲しいんだ」
頑なだったフルールの態度と表情が柔らかくなる。その柔らかな頬に手を当てて撫でるランディ。今は、この時間を大切にせねば。己と友が願った事を叶える為の大切な時間だ。
「まあ、今直ぐにってのは……無理だよね。どんなに時間が掛かっても良い」
「っ!」
「頼むよ、フルール」
似合わない甘い声でフルールの耳元で囁くとフルールが頬を赤く染める。今までならさらりとあしらわれたのだが、珍しい事もある。毎度、毎度やられっぱなしなのだから少しくらい刺激してやりたい。ちょっとした嗜虐心が首を擡げ、ランディはからかいたくなった。
「そんないじらしい顔しないでよ。ちょっとでも気を抜いたら惚れちゃうぞ?」
「……しょうもない」
「そうさ。俺は、本当にしょうもない」
からかわれ、むっとするフルールを見てランディは高らかに笑う。また、こんな下らない話が出来る日を迎えられるとは思ってもいなかったのだから。笑わずにはいられない。そして、己と同じ様に笑って欲しかった。未だ、固さの残る表情が心の傷を如実に表している。その傷を癒すのも自分の役名だ。寧ろ、ランディにしか出来ない。
「それと、あと一つ君にはお願いしたい事が……まあ、これは先の話でも良いか」
「何よ?」
「大丈夫、急ぎじゃないし、ほんとに下らない事だから」
「気になる。言って」
「なら、俺に言わせてよ。君になら出来るだろ? 無理に言わせるまでも無く」
「むっ……」
出来る事なら。だが、その願いは我儘が過ぎる。もっと、先の話だ。誰かに託そうとも一度は、考えたがそれは虫が良過ぎた。自分の手で取り戻さねばならぬ。もっと賢く素直な自分が存在したのならもっと上手く伝えられたのかもしない。だが、それはランディではない。
何処までも自分らしく。それが最適解なのだ。
「後、今更だけど—— 髪、切った?」
「ほんとに……今更よ」
「長い方も似合ってたのに」
「—— 駄目だった?」
不安そうに毛先を弄るフルールにランディは、首を横に振る。
「いや? 似合ってるさ」
常に揺らぎ続ける感情。それは、見ていて本当に飽きない。この瞬間に立ち会えただけでも。戻って来た甲斐があったと言えよう。そして、二度と同じ過ちを犯さないとランディは心に決める。その日の朝は、互いの時間が許す限り穏やかな時間がずっと流れ続けた。
*
朝は、フルールが仕事へ向かうまで一緒に過ごした。その後は、敢え無く病室に連行されて監禁。幾ら意識を取り戻したとは言え、安静は絶対だ。その上、目撃情報と共に目が覚めた事が皆に伝われば、騒ぎになるのでヌアールは、誰にも伝えていない。ランディに無理をさせたくなかったヌアールなりの計らいとも言える。しかしながら手持無沙汰の時間を過ごすのも苦痛が伴うもの。勿論、痛む体を押してまで何かをしたいと言う訳でもないが。
「さて……暫く寝ていたものだから眠気が全く」
朝の煙草も言ってしまえば、特例として許されただけ。極僅かな朝食を与えられ、ミロワの介助を受けながら完食した後。本当に何もしていない。
「暇だ……」
と言ってこの殺風景な病室に何か娯楽がある訳でもなく。出来る事があるとすれば、読書くらい。差し入れで何冊か、渡されたものの生憎、活字とは少し距離を置きたかった。少しでも字をみれば頭痛が始まる。あの場での出来事は、影響が大きかったのだ。
「ふむ……」
寝台で横になるのも飽きて椅子に座り、ぼんやりと窓から見える外の景色を眺めている事が唯一の癒し。人通りの少ない路地や空き地で揺らぐ木々や草花、放蕩猫のユリイカが長椅子で寛ぐ姿などが見えた。時折、晴天の空を流れる薄い雲を数えるのがランディの暇つぶしだ。何とも世知辛い。そんな風に無為な昼時を過ごしていると急に廊下が騒がしくなった。
「俺の見舞客……だろうなあ」
ヌアールから今、入院している患者が居ない事は、教えられている。ましてや、ヌアールの声でもミロワの声でも無い。寧ろ、その二人以上に聞き慣れた声。差し迫った危難に長らく止まっていた思考が回り出す。自分の怪我も忘れ、急いで立ち上がろうとしたが、痛みで体が動かない。実際、この椅子に座る事すら一苦労だった。
「誰かは……分かった。これは大変な事だ」
こんな事なら無理に眠っていた方が楽だっただろう。それならば、自然とやり過ごせたのだから。まだ、心と体の準備が出来ていない。今のランディを目にしたら何が起きるかなど、明白だ。加えてのんびりと向かって来る事から推測すると二人は、まだ何も知らされていないだろう。知れていれば、ランディが察する前に扉を打ち破る勢いで来ていたに違いない。
「どうせ……バレる。観念しよう」
何十年もの付き合いだ。何か小細工をした所で自分がやらかすのは、分かっている。大人しく首を差し出した方が許しを得られるかもしれない。賢くなりたいと思った場面は、幾度と遭遇した。だが、この瞬間を越えられるものは一度も無かった。
「来る前にヌアールの所へ顔を出しておくべきだったな」
「大丈夫です。何かあったら知らせが来ますからね。どうせ、今日も呑気に寝てますよ」
「そうだな……」
扉の隙間から話の内容が漏れ聞こえて来る。その確認があれば少しは、先方にも心の準備が出来ていただろう。己が言うべき第一声は、決まった。これで笑いが取れれば、儲けもの。
だが、きっと笑ってくれやしない。分かっていても言わずにはいられなかった。
「っ!」
ノックも無しに病室へ入って来たのは、レザンとシトロン。業務の合間に訪れたのか二人して仕事着姿。そんな二人が目にしたのは、本来なら寝台で大人しく寝ている筈のランディが窓辺の椅子に座って申し訳なさそうに小さくなっている姿。驚きで口を大きく開けたまま、言葉一つ発しない。
「ああ……大人しく寝て無くてごめんなさい」
おずおずとランディは、謝罪の言葉を口にする。その一言を皮切りに二人は、我に返る。
「おまえっ——」
「長らくご迷惑とご心配をお掛けしましたっ! すみませんっ! レザンさん」
出来れば、床に伏せて陳謝したい。どれだけ迷惑を掛けたかなど、計り知れない。何を言っても何をしても許されないだろう。覚悟を決めて目を瞑るランディに向かってレザンよりも先にシトロンが駆け寄る。
「シトロン。申し訳なっ——」
強い衝撃を受けてランディが目を開けようとするのだが、何かに押さえつけられて開かない。感じるのは、顔に当たる柔らかい感触と嗅ぎ慣れた柑橘系の香りだけ。何が起きたか気付くのに少し時間を要した。頭上で鼻を鳴らす音が聞こえてシトロンに頭を抱き抱えられていると分かった。
「……」
「ほんとに……ごめん」
何とか口元だけ空間を確保し、くぐもった声でランディはシトロンへ改めて謝る。それからシトロンの手を取り引き離すと無理を押して立ち上がり、今度は自分から身を引き寄せてしっかりと抱きしめるランディ。胸元で静かに涙を流すシトロンからレザンに視線を向けると微笑む姿が見えた。
「……この大馬鹿者め」
「おっしゃる通り……返す言葉もございません」




