第伍章 Receptionist 7P
「あれは……うーん」
「本当の本当にヤバいな。お前、死んだわ。安心しろ。墓標に酒と煙草だけは手向けてやる」
「全く、安心出来る要素が無いのですが……」
何の慰めにもならない。ましてや、起こり得る結末で冗談が冗談で済まされていない。ランディの本能が叫ぶ。今直ぐにでも逃げろと。再度、立ち上がろうとするランディのわき腹をヌアールが小突く。途端に小突かれた箇所に猛烈な痛みが生じ、ランディは長椅子の上で蹲る。恨めしく見上げるランディの顔をヌアールはいやらしく嘲笑う。
「逃げるな。往生際が悪いぞ」
「そんなあ——」
更に時間を空けず、ミロワに連れ添われたフルールが此方へ向かって来るのが見えた。錯乱したフルールの声が遠くからでも聞こえて来る。
「だって—— だって……幾ら探してもっ! 見つからなかったもんっ!」
「フルール、こんな時だからしっかりするんだ。大丈夫、直ぐに見つかる——よっ?」
目的は、ヌアールだろう。もっと言えば、ランディの向かう宛てはない無いか。捜索の見当も含めて相談する為に。勿論、それら全ての杞憂は、この場に訪れる事で解決するのだが。
フルールの肩を抱いてあやすミロワがヌアールとランディの方へ不意に顔を向けると驚いて眼鏡越しに目を丸くする。それから疲れた顔をした後、フルールに顔を上げるよう促す。
「本当に馬鹿らしい。灯台下暗しとは正にこの事だ。ほら……前を見てごらん」
優しげな声に導かれ、フルールが顔を上げると煙草を片手に馬鹿面を晒すランディの姿。
言葉を失い、立ち尽くすフルールを見てヌアールは肩を竦める。
「さあ、待ちに待った時間だ。俺の心労がやっと報われる」
「……他人事だからって」
恨み事を言っても状況は変わらない。煙草を地面に落として足で火をもみ消すとランディは、覚悟を決める。さて。目覚めの朝に相応しい言葉は何だっただろうか。それはたった一つ。他には何もない。他に気の利いた言葉があれば良かったのだが生憎、そんな器用な言葉を思いつく程、賢くは無い。
「フルール……おはようっ」
「っ!」
冷や汗を流し、上擦った声で声を掛けるとフルールの怒りが頂点に達した。足音荒く、一瞬で距離を詰めるとランディの胸倉を掴んで唸るフルール。恐れていた現実を目の当たりにしてランディの足は、生まれたての小鹿の様に震える。
「……どんなに」
「うわっ——」
それから何をするかと思えば俯き、まるで呪詛みたく小声で何かを呟くフルールの声。耳を傾けると音量は次第に大きくなって行く。
「どんなにっ! どんなにっ! どんなにっ!」
「……」
例え、一言だけでも強い想いが伝わって来る。どれだけ待たせてしまったか。後悔がじわじわとランディの心を蝕む。言葉を紡ぐ内にフルールの手の力が弱まり、ふらつく。その体を辛うじて踏ん張り、支えるランディ。するとランディの体へしがみつくフルール。
「どんなにっ! どんなにっ! どんっなに——」
「ごめんよ……本当に心配を掛けた」
胸元で盛大にむせび泣き、暴れるフルールの頭を撫でてあやすランディ。こんな事なら心地の良い眠りを妨げてでも一番に感謝の言葉を告げるべきだった。最も状況が少し変わっただけで泣かせてしまう事には変わらなかっただろう。そもそもの間違いは、この状況に陥った事にある。今、すべきはフルールの想いを全て受け止める事。それだけだ。
「もう……もうっ! おねがいっだから。おねがいだからどこにも……どこにもいかないっ! で—— おねがいだから。あたしをあたしを——」
「ああ、きちんとこの町に居るよ」
必要が無くなるその時までは。等とは、口が裂けても言えなかった。だが、何時の日か自分の役名を終えるまでは傍にいてやらねばと思う。それがどんな役名かは分からないが、少なくとも支えにならねばならない。彼との思い出を笑って話せる様になるその時までは。
「全く……本当の愚か者は、俺だったなあ」
「やっと理解したか? 本当に馬鹿だな」
「全面的に同意するよ」
自分が思っていたよりも人から思われていた事を知るランディ。そして、それは自分が最早、自分のモノだけではないと分からされた瞬間でもあった。もう、これまでみたく思うが儘に我を通す訳にも行かない。自分が存在する事に意味がある。以前、伝えられたそれを。やっと本当の意味で少しだけ理解した。
「後は、お前がどうにかしろ。邪魔者は退散だ」
「それが良いね。朝食にしたい。やっと肩の力が抜けた。久々に豪勢な朝食が良い」
「今日は、どっちの当番だ?」
「本来ならば、貴方の当番だが……今日は、ここ数日の頑張りに免じて私が代わろう」
「珍しい事もあるもんだ」
「ふふっ」
察しの良い大人を演じるヌアールとミロワ。ランディにとっては二人にされるとそれはそれで困るのだが、呼び止めようにも理由が見つからず、立ち去ろうとする二人に対して無言で手を伸ばすも軽くあしらわれてしまう。泣き止むまでの間、長椅子の上でランディはずっとフルールをあやし続ける。けれども長く床に臥せっていた体には荷が重い。限界のその先が見え始めた所でやっと鼻を啜りながらフルールが喋り始める。
「ずっと、目を覚まさないから……」
「まあ……自分で言うのもあれだけど。かなり無理をした」
「もう……二度と話も出来ないんじゃないかって」
「話くらいなら何時でも何処でも出来るよ」
その場しのぎの頭が空っぽな言動。再燃した怒りが込み上げて来るも見上げると微笑むランディの姿を見てそんな感情も何処かへ行ってしまう。ぼんやりと見つめていると真っ赤に染まった目尻に付着した雫を指で救いあげられる。
「ほんとに……ほんと? 幻じゃない?」
「現にしっかり掴めているだろう?」
「うん……」
落ち着きを取り戻したフルールは、ランディからすっと距離を取る。
「本当は……こんな事、許されない」
「どうして?」
「だって……だってあたしの所為であなたが——」
あの日の記憶が鮮明に蘇る。血の海に沈むランディの姿。薄暗い診療所。深紅に染まった両手とシトロンの糾弾、そしてヌアールの言葉。それらは、ランディが知らない出来事の一つ。より複雑化した関係性がフルールを責め立てる。
「傷付けて心配させて苦労を掛けた相手に対して俺が謝って感謝して労うのは、別だろう。君が何か考える必要は無い。少しは、罪滅ぼしをさせて」
そんなフルールの手を取り、ランディは言う。先の状況からも分かる通り、時間が許す限り付きっ切りで傍に居て身を案じてくれたのだ。その厚意に報いる必要がある。
「何より……アンジュさんときちんとお別れをして……こうして俺は、戻って来れた。それじゃあ、駄目なのかな? それとも他に何か複雑な事情が?」
少なくともこの場に存在しているのは、二人だけ。その間に障壁は何もない筈だ。
「シトロンが……あたしを許さない。例え、あなたが戻って来ても」
「それなら俺が何とかするよ。そもそも勝手を押し付けて迷惑を掛けたのは、俺だから。きちんと納得して貰うまで謝る。それが俺のやらなきゃならない最初の仕事」
勿論、それだけではない。やるべき事は目白押し。共通しているのは、謝罪の二文字。言ってしまえば謝罪行脚だ。そして、皆に伝えねばならない。これからの在り方について。
「当然だけどシトロンだけじゃない。迷惑かけた人、全員だ。……レザンさんにも謝らなくっちゃ。ルーにもだし、ユンヌちゃんもだね。ベルとルージュちゃんもそうだ。あらゆる所に迷惑かけてばっかり。そう考えると俺のやる事って多いなあ。病み上がり明けなのに……」




