第伍章 Receptionist 6P
通常なら月単位は掛かる外傷の治癒もかなり早く進んでいる。もっと耐え難い痛みに苛まれると思っていたがこれならば、一週間後には歩き回れるくらいには回復しているだろう。何にせよ、久方ぶりに体を動かしたくて居てもたってもいられない。
「慣らし運転が必要だ。さて……何処に行こうか」
更に室内を見渡すと扉側に設置されている机に煙草と燐寸の一揃いが見えた。
「流石、悪友。起きたら俺が先ず、何をしたいかきちんと分かってる」
誰が見舞いの品として届けてくれたかなど、容易に想像がつく。なるべくフルールへ刺激を与えぬようそっと寝台から抜け出し、片足を引き摺りながら進み、煙草と燐寸を持ってゆっくりと病室を後にするランディ。薄暗い廊下と階段を通り抜けて向かうは外界。随分と閉じ込められていた事も相まって一刻も早く外の空気を吸いたい。階段との格闘に時間を要したものの正面の扉を抜けて外に出ると辺りはまだ薄暗く、夜の帳の名残を残していた。
「まだ、朝方だったか。まあ、久しぶりの目覚めとしては幸先が良いね。これだけ早ければ、誰かの目を気にしなくても良いし……生活周期の改善もしなくて済む」
静けさが立ち込める町。また、この景色が拝めるとは思わなかった。星々がまだ輝く空は、雲一つなく、穏やかな天候。あの日よりも素晴らしい朝焼けが見られるだろう。
「あんまり目立たない所、無いかな……バレたらしこたま怒られる」
幾ら体が動こうとも怪我人である事に変わりはない。診療所の横には、少し開けた空き地があり、其処に置かれているくたびれた木製の長椅子の存在を思い出し、ランディは向かう。
「ごほっ! ごほっ!」
勢いよく、長椅子に腰を下ろして早速、煙草に火を灯して一服。慣れぬ紫煙が体に取り込まれた瞬間、盛大に咽るランディ。風向きが悪い所為で煙草の煙が目に入り、沁みる。何度か吸っている内に体が慣れ親しんだ感覚で満たされる。これで珈琲の一つでもあれば言う事なしなのだが、贅沢は言えない。
「いやはや、娑婆の空気は本当に染みるなあ……生き返るよ」
全身から余計な力が抜け、ぼんやりと朝焼けが訪れる方向を眺めながら至福のひと時を過ごしていると、診療所正面の扉から慌ただしい音が聞こえて来た。
「一体全体……何事だ? 朝っぱらから騒がしい」
扉から勢いよく飛び出してきた人影にランディは、首を傾げる。それはフルールだった。
「あれは……何か忘れ物? それとも仕事の時間まで寝過ごした?」
血相を変えたフルールが町の中心部へと駆け出して行くも足を絡ませて転んでしまう。
「盛大に転んだなあ。あれは—— 相当、痛いぞ」
少し、痛みで体を縮こませるもすっと立って靴が片足脱げているにも関わらず、走り去って行くのを見届けるランディ。その場で呼び止めれば、被害は少なくて済んだだろう。と言っても今更、後の祭りだ。それから間髪空けずにカップを片手に持ったヌアールが正面の扉から姿を現し、盛大に頭を掻き毟った後、此方へと向かって来るのが見えた。胸元のポケットに集中しながらヌアールが不意に此方へ目を向けると煙草片手に寛ぐランディの姿を目にする。怪訝な顔をしながら最初に放った言葉は。
「お前……死んだな」
「残念ながら死にそびれた身なのですが……一体全体、どう言った理由で再び人生の終止符を打たねばならぬ程、切羽詰まった状況に?」
「その様子なら問題無い。明日にでも家へ帰れ」
「いきなり何ですか? 俺の質問にも答えてくれないですし」
ヌアールもランディの隣に座り、煙草を吸い始める。のんびりとした朝を迎えられた矢先にこれだ。合点が行かず、困惑するのも無理はない。だから問うているのに質問に対して真面な答えが与えられない。
「そもそもお前……どれだけ迷惑を掛けたか分かって無いな? もう、天地がひっくり返る程の大騒ぎになったんだぞ?」
「それは、存じておりますが……寝ていたものでして。生憎、その間に何が起きたのか……すっかり抜け落ちてます。是非とも説明を」
「もう、絶対に次は面倒見ないからな……こんな時でもふざけやがって」
そう言うと片手に持っていたまだ口をつけていない珈琲をランディに渡すヌアール。
「それは、いつもの事でしょうに」
有難く受け取りながらランディが口をつける。その姿を見届けた後、ヌアールは大きな伸びを一つして首を回す。ヌアールにとっても長い戦いだった。その結果が何も知らずに安穏としているのが少々、気に食わないが場合によってはそんな感情すらも抱けなかったのだ。
「まあ、何だ……逃げずに帰って来たからな。それだけは……褒めてやる」
「殆ど、自分では何もしてないですけどね。ありがとうございます」
褒められても自分が何かをした自覚はなく。全て誰かしらに頼りきりであった。珍しく微笑み掛けて来るヌアールに対してもどかしさを覚えるランディ。そのもどかしさを払拭したくてランディは、話を蒸し返す。
「それにしても……フルールはどうしたんですか? あんなに慌てて。もしかして仕事の時間でも忘れてたんですか?」
「お前、何も言わず—— 起こしもせずに此処へ来ただろ?」
「ええ。気持ち良さそうに眠りこけていたので。邪魔するのも悪いかなと」
「それが原因だ。俺の身にもなってみろ。折角、起き抜けに朝のゆったりとしたひと時を過ごそうとした矢先、部屋に突撃食らって胸倉まで掴まれて尋問を受けた」
「もしかして……俺を探しに?」
「そうだ。お前が居ないって半狂乱でフルールは、叫んでたぞ? 俺も知らないと言ったら聞く耳持たず、飛び出して行った」
悪気は無いと言え、軽率な行動であった。今から病室に戻れば、言い訳くらいは出来るかもしれない。煙草の火を消して立ち上がろうとするもヌアールが首を横に振って止められた。最早、挽回の手立てはないと悟り、ランディは観念し、もう一本吸い始める。
「それは、それは……さっきよりも更に後が怖くなりました。しかも盛大に転んでたから恨みも相当なものになってる筈……考えるだけでイヤだなあ」
「下手しなくても殺されるな。お前。それも残酷なやり方で」
「折角、戻って来たのに? 何とも……現実とは無常だ」
「冗談を言ってる場合じゃない。俺は一切、庇わないからな」
「ご無体な」
「お前を庇ったら俺までタダじゃあ済まされん。野郎と心中は、趣味じゃない」
「左様ですか」
ランディは、背凭れに寄り掛かってやさぐれる。どうせ、真面に動けやしない。ましてや、伝えねばならぬ事も人も沢山ある。こんな些細な失敗で音を上げている暇はない。
「で……どうだ? 今のお前の目に映る景色は」
「まだ……受け入れきれません。でも……」
忘れもしない。自分が一人ではない事をあの紅い残滓が教えてくれた。死しても尚、自分の背中を押してくれた者に対して報いる事があるとすればそれは一つしかない。
「でもまだ、自分に出来る事があるのではないかと……希望が。少なくともこの目に映る世界が灰色ではなく、色鮮やかなものへ戻りました」
己に何が出来るかなど、分かった訳ではない。それを知る為にまだ足掻き続ける必要がある。その猶予を与えられたのだ。その人の為にも立派な最後を遂げられるまでは死ぬ訳にも行かぬ。そうでなれば、顔向けも出来ない。胸に刻まれた決意は固い。
「そうか……」
「まあ、そんなちっぽけな希望も直ぐに絶望へ変わるがな」
「何の為に聞いたんですか……」
「気まぐれだ。ただの気まぐれ」
「はいはい」
それから少しして又もや、フルールが姿を現す。今度は、泣きじゃくり、両手で必死に涙を拭いながら診療所の扉を潜り抜けて行く姿を見てランディは、顔を青くする。




