第伍章 Receptionist 5P
*
ヌアールが眠りに誘われたのと時同じくしてフルールは蝋燭の明りだけの薄暗い自室に籠り、姿見の前で椅子に座っていた。手には、ばっさりと乱雑に切られた長い髪と鋏。診療所で血痕を洗い落とし、そのまま自宅へ戻ってからは食事も一切取る事無く、寝台の上で膝を抱え、呆然としていたのだ。そんな風に日中を過ごしてこんな夜更けになってから衝動的に体が動いていた。手にした鋏を自身の首に突き立てなかったのは、ヌアールの言葉が脳裏にこびりついて離れなかったからだ。何をどうすれば良いかも分からない。恐怖と錯乱が何処に行っても己に憑いて離れない。その狂乱から少しでも逃れたいが為に自傷行為へ至った。されど、切った所で何も戻って来る筈も無く。
涙で視界が酷く歪む。一歩も前に進めず、後退も許されない。他者に答えを求めても正解を教えてくれない。命運は自分ではなく、他の誰かの手に委ねられたまま。無力さに苛まれ、この苦痛から逃れる術も全て奪われたのだから。
「フルール、まだ起きてる?」
「……」
そんな混迷の最中。自室の扉から声が聞こえて来る。それはふさぎ込む娘を見るに見かねた母グレンヌの来訪であった。その声に応える事無く、フルールは静かに涙を流すだけ。
「入るね?」
フルールの言葉を聞く事無く、扉を開けて姿を現すグレンヌ。グレンヌが目にしたのは、姿見の前で涙を流す娘の姿。
「もう……こんな夜更けに何してるの?」
「……」
驚いて同じ茶色の目を大きく見開くも状況を察してゆっくりと近寄り、背後に回るとその華奢な両肩に手を置いて鏡越しに微笑むグレンヌ。
「そんな風に切ったら駄目じゃない。それに暗がりで切ったら危なっかしいたらないわ。しかも伸ばしてたんでしょ? 一体、どう言う風の吹き回しかしら?」
「……」
問いかけてもフルールから返事は、返って来ない。遂には両手で顔を覆い、大泣きするフルール。グレンヌは、ボロボロになった娘の頭を優しく撫でて宥めすかす。
「そうね。聞くまでも無かった」
「……覚悟が足りて無かったの」
やっと喉から絞り出た声は、すっかり枯れ果てていた。何の為の覚悟か。それは、様々な意味を内包しており、一言では言い表せない。勿論、それはグレンヌにも理解が出来る。
「そんな事したって……戻って来る訳じゃないわ。それに……ランディ君が戻って来てあなたをそんな姿を見たら逆に驚いちゃう」
「でも……だって……だって」
「そうね。何も出来ないのって……悔しいね」
藁にも縋る思いで母に縋るフルール。そんな娘をグレンヌは、優しく迎え入れた。
「貸しなさい。私がちゃんと上手い具合に仕上げてあげるから」
「……」
暫く重い沈黙が続いた後、フルールの手から鋏をするりと抜いてグレンヌは、散髪の準備を始める。部屋の照明に明りを灯し、椅子を部屋の隅へ追いやって大きな布を床に敷き、其処へ座らせ、更に首周りに別の布を巻き付けてから器用に毛先を整えて行く 。
「大丈夫。必ず帰って来てくれる。だからあなたはその時、きちんと迎えて上げて」
「でもっ……でも……もし帰って来なかったらっ!」
「あなたが信じなかったら誰が信じるの?」
小気味の良い鋏の音共にグレンヌは、フルールを教え諭す。確かに何も出来ないのかもしれない。だが、それでも希望を捨ててはならないと。まだ、その灯が消えた訳ではない。消えかかっているのならば猶更の事。例え、無意味でも自分にも出来る事があると信じて願う事を止めてはならない。そして帰って来る場所を守り続ける役名から逃げてはならない。
「あなたがすべき事は、きちんと傍に居て誰よりも信じてあげる事。例え、最後の一瞬でさえも。そうじゃなきゃ、帰って来るものも帰って来ないわ」
首に巻かれた布に大粒の雫が染みを作り出す。
「そういう風に出来ているの。だから誰よりも信じて。そう。ランディ君自身よりも」
言葉では、伝えられない。強いて例えるなら届く当てのない手紙を書き続ける様なものだ。だが、その想いを伝え続けねばならない。
「頑張ってね。フルール」
帰って来た時にきちんと迎えてやればそれで良い。まだ、その膝を折るには時期早々。
その想いは、必ず届く。背中を押されたフルールの瞳に今一度、光が宿った。
*
死の淵に旅立ちかけた時と同様に目覚めもあっさりとしていて唐突だった。ぼんやりとした視界の靄が消え去り、鮮明に見えて来たのは見慣れぬ天井。ランディは、首を傾げる。
自分がどれくらい長い間、昏睡状態であったか。また、自分の体が何処に安置されていたかも分かる筈も無く。されど、身体の痛みで今も自分が生きている事だけは理解した。
「っ!」
長い間、動かしていなかった所為で言葉すらも真面に発せられない。瞬きを何度も繰り返し、覚束ない手と腕に力を込めて柔らかい床から上体を起こす。己の体を覆っていた肌掛け滑り落ちたのと視界が一気に広がった事で自分が寝台に横たえられていたと気が付いた。
「何とか動くな……」
やっと捻り出した第一声は、自分の状態を確かめた結果。改めて包帯だらけの体を視認すると自分がどれだけ負傷を負っていたか思い知らされた。そしてその自覚が忘却の彼方にあった痛覚を呼び覚ます。『力』の使用による頭痛は全くない。だが、縫い合わされた皮膚が引っ張られて痛み、打撲やその他の外傷によって痛みの無い所を探すのが困難ほど。
「痛い……」
その痛みがより強く生を実感させる。また、これまで失っていた様に感じていた五感も呼び覚まされる。夏特有の湿度と気温が肌にべったりと張り付き、消毒液の臭いが鼻をつく。開き切った窓から流れ込む風と揺れる日除けの音。今更だが、これまで灰色だった世界が色鮮やかに見える。戻って来たのだ。
「また—— 死にそびれた」
漏れ出た独り言は、後悔から来るものか。それとも別の何かだろうか。それは、当人ですら分からなかった。されど、久方ぶりにどんよりとした靄が消え去り、清々しい。
それは、きちんと別れを告げる事が出来たからに他ならない。
「それにしても……長かった。もう二度とやりたくない」
手厳しい。その一言に尽きる。己の体を治す為の課題とは言え、限度があった。終盤に至っては最早、何を言っているかも見当がつかず、目を回した。
『そのお陰で体は、問題ないからあんまり悪く言えない』
好い加減、現状把握も飽きてゆっくりと辺りを見渡すとベッドの横で椅子に座り、もたれかかっている者が居る事に気が付く。静かに眠りこけていたのは、若い女性。見慣れない人物だと首を傾げたが、顔を見ている内にフルールだと気が付く。
「ああ、髪切ったのか……長い方も似合ってたのに」
どんな心変わりを経て今に至るのかは、ランディが知る由も無い。当然の事ながら知る必要があるもそれは、この場である必要も無い。眠っているのならばそっとしておきたかった。
「それにしても泣きながら涎を垂らすなんて……随分と器用な事を」
もっと言えば、眉間にも皺が寄っており、口も半開き。服装に変わりはないが化粧っけの無さで普段よりも幼く見える。椅子に座って寝るのが辛かったのか態勢も不可思議なものになっている。気になる事を上げれば、暇がないものの、目の下の隈や顔色が少し優れない所を見るとかなり無理をさせてしまっている。
「……何だか随分と心配を掛けたみたいだ。後が……怖いな」
目が覚めたら何をされるか分かったものでは無い。何か対処法が無いか考えてみるも攻略方法が思いつく筈も無く。そんな現実から一度、目を背け逃避に耽るランディ。
「痛み以外は……本当に何ともない。我が身に降りかかった事ながら末恐ろしいよ」




