第伍章 Receptionist 3P
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その日の夜。仮眠を取る前にヌアールは、カンテラを片手に真っ暗な診療所の見回りをしていた。とは言っても現在、診療所で入院中の患者は一人しかいない。ミロワと交代する前に念の為、容態を確認しておきたかった。不幸中の幸いで昼間は急患も無く、訪れる病人も少なかったので十分、目を掛けられた。また、診療所に運び込んで治療をした段階である程度、ランディ自身も安定した為、容態も急変する事も無く、様々な用事で何度も病室を訪れたが、静かに目を閉じているだけで大人しくしている。強いて挙げるなら目を覚ます兆候が無い。それが唯一の気がかりである。
「……」
しかしながらヌアールにも気になる事があった。あまりにも今日の出来事がとんとん拍子で進み過ぎている事へ違和感を覚えていたのだ。何時死んでも可笑しくない状況にも関わらず、まるで予め仕組まれていたかの様に上手く事が運び過ぎている。
「末恐ろしいな……」
苦笑いを禁じ得ない。まさか。もし、そんなものが存在するとすれば。己の命でさえも目に見えぬ、匂いも感じない、触れる事さえ敵わないものが牛耳っている。そう考えてしまうと不安が胸を締め付けて息が苦しくなる。寒気がする憶測は、疲れから来るものだ。考え過ぎるのも考えものだと自分に言い聞かせて自身に活を入れるヌアール。
「本当に恐れないといけないものってのは……一体、何だろうな」
呟きながら静かに扉の前に立つと言い知れぬ新たな戦慄がヌアールを襲う。室内で誰かが歌っているのだ。室内から聞こえて来る若い女の歌声。それが原因だ。だが、その歌声がどうしても人が発するものとは思えなかった。精密で均整の取れた声音が旋律を刻んでいるからだ。恐怖で足が竦むも此処で立ち止まる訳にも行かない。全てを見届けると決めているヌアールが病室に足を踏み入れると同時に精巧な音色も止んだ。
「その疑問に正解は御座いませんよ。強いて挙げるとするならば……同じヒトでしょうか」
「盗み聞きとは感心しない」
「申し訳御座いません。返答を求めていらっしゃるようでしたので」
病室の内装に特別な変化はない。窓の近くに寝台が二つと併設された小机と椅子。扉側に灰皿が乗った大きな机と椅子があるだけの簡素な室内。その中で唯一、違和感として存在するのが窓辺から差し込む月明りに照らされて待ち受けていた寝台に横たわるランディとその隣で椅子に座り、ランディの頭をやんわりと撫でる細身のうら若い女性。真っ白な髪と見慣れぬ衣服を纏い、暗がりの中でも一際、異彩を放つ虹色の虹彩。全てにおいての違和感と異質な存在感に気圧されて総毛立つヌアール。
「お待ちしておりました。先生」
「はてさて……此奴は、面会謝絶だった筈……それに誰とも密会の約束をした覚えも無い」
ランディからヌアールの方へ振り向き、微笑む女性。視線を外さず、警戒しながら壁際に立て掛けてあったランディの剣の下までヌアールはさり気なく歩み寄る。非力そうに見える相手でも剣を手に取った所で通用しない。それは、ヌアールにも分かっていた。誰も二階の病室まで通した覚えはないし、許可も与えていない。鍵などは付けていないが、二階を誰かが歩いたとすれば、足音が必ず階下に響いて分かるし、この診療所に訪れた者は、全て覚えている。加えてミロワとヌアールの二人体制だ。それ程、大きくは無い診療所に侵入者を許す訳もなく。それら全ての障害を躱した上でこの部屋に居る事自体が異常なのだ。
「そもそも貴女の様な絶世の美女がこの町の住人であった記憶が無いのですがね」
「失礼致しました。ヌアール医師。私は——」
「自己紹介は、不要ですよ。知り合いになりたくない……恐ろし過ぎてな」
「残念です。折角、お知り合いになれる機会が」
『そんな心算は、毛頭ねぇーだろ』
着衣で医師である事が分かっても名前までは分かる筈も無い。まるで全てを見透かされている。もしかすると考えている事すらも。冷や汗が背中を伝わって落ちて行くのが分かった。こんな場を選んでわざわざ友好関係を紡ぐ為に居る筈が無い。相手の目的は、ただ一つ。ランディに纏わる何かを伝えに来たのだ。それを済ませて貰い、今直ぐにでも退場させる。
それが何よりも手堅い選択だった。
「此度の邂逅は、偶然の産物です。私共といたしましても急を要したもので……」
そう言うと、不服そうに口元を真一文字に結んで又もやランディの方へ視線を戻し、頬を軽くつねる女性。相手は恐らく、ランディを取り巻く超常の存在そのもの。何の変哲もない青年がそれらをこんな場に呼び出して手を煩わせている。これからの接し方について考える必要があるかもしれない。新たな悩みの種がヌアールの中で生まれる。
「全くもって手の掛かるお客様です」
「それは、間違いない」
「勿論、それが愛おしくて愛おしくて仕方が無いのですが」
つねっていた手を離し、今度は頬を撫でながら優しい眼差しを向ける女性。その親愛が何処から湧いて来るのか。それともそれが本当の親愛なのか。二人の間に結ばれた歪な関係性にヌアールは首を傾げる。勿論、ランディの過去を知らないのだからそれも致し方が無い。
「そう思うならどうかしてる。しょうもない男に引っ掛かって身持ちを崩す部類だ」
「日陰の女と言うのも……それはそれで実に興味深いですね。悪くないです」
「……イカれてるわ」
「そうおっしゃられても仕方がありませんね」
軽く咳払いをした瞬間、先ほどまでの朗らかな印象が一瞬にして塗り替えられる。厳格さと落ち着きを持つ別の顔が姿を現したのだ。これまでの茶番は、場を和ませて円滑に話を進める為の前座と捉えるべきだろう。
「さて、先生との会話へ興じるばかりではよろしくありません。本日は、お伝えすべき事があり、馳せ参じた次第。手短に済ませます故。暫しの間、お付き合い頂ければ」
「どうせ、断ろうにも断れないだろ? 建前だらけの堅物お化け。俺が一番苦手な部類だ」
「そうツレない事をおっしゃらないで下さいな」
丁寧な申し出であったとしてもヌアールには関係の無い事。だが、無関係で居る事を相手はよしとしない。意固地に断っても良い事は何もないし、当初の予定である早急なお引き取りからも遠のいてしまう。胸元のポケットから煙草を取り出し、火をつけてヌアールは気を引き締める。
「さっさと本題に入ってくれ。これでも疲れが溜まっててな。もう寝たいんだ」
「そうですね。配慮に欠けておりました。こんな夜分遅くの訪問だけにあらず——」
「御託は要らない。率直に答えて欲しい。此奴の今後はどうなる? そもそも俺に出来る事はもう無い。後は、此奴とお宅次第ってとこだ」
己に出来る事は何もない。それは、ヌアールにも最初から分かっていた。ずっと抱いていた違和感。まるで自分の頭の上で誰かが取り決めた事を全うしただけ。そう感じていた。その説明の為にこの場を設けられたに違いない。直感で分かっていた。そして、それらの判断が無事遂行される為の警告である事も。最終の選択を回避させる示唆が本来の目的なのだろう。それならば、ヌアールにとっても好都合。聞き出したい事を全て問い詰められる。
「おっしゃる通り。現状、私共で治療にあたっております。直に目を覚まされるでしょう。ご心配は無用。以前とお変わりなく、全快の健康状態で」
「実際の所、どうなんだ? 本当なら今、起きても大丈夫なんだろ?」
「勿論。ですが、物事には段取りが御座います。あくまでも自然な完治を目標としております。ですからこうしてお休み頂いている方が好都合なのです。意識を取り戻せば——」
「まあ、此奴の事だ。忙しなく動き回るだろうな」
「ええ」




