第肆章 死に至る病 6P
もし、それが出来たのならば。皆の内在する不安定なそれを取り除く事が出来たのなら悲劇は無くなる。是が非でもアンジュにはその御旗となって欲しかった。
「まだ間に合うと思ってた。アンジュさんなら大丈夫だって。でもそれは、自分に言い聞かせていただけ。やっぱり、駄目だった。だから俺は絶望へ屈した。どれだけ頑張っても無駄だと分かったよ。もう俺に出来る事は何もない。全部、諦めたんだ」
「僕は、諦めて欲しくないと思ってる。例え、君が達成出来ない大いなる目的があったとしても。君自身の幸福を追求する義務があるんだ。皆が幸せである様に君も幸せにならなきゃ」
「そんなものどうでも良い。俺の幸せなんて」
「良くないよ。どれだけ背伸びしたって君は、ヒトだ。だからその枠組みの中に居なくちゃ」
「もう……生きるのが辛いんだ」
「っ!」
そろそろ潮時だ。伝えるべき事も伝え、目的も果たした。これから交わされるのは、下らない堂々巡りの会話だけ。扉付近から床板の軋む音が微かに聞こえて来る。丁度良い頃合いで助太刀も現れてくれた。
「ルー、戯言は此処までだ。もう、ランディを自由にしてやれ」
「……レザンさん、どういう風の吹き回しですか?」
「これは、この子の決めた事だ。私は、それを叶える為に力を貸すと決めた」
「ありがとうございます。レザンさん」
開け放たれた扉を背にしていたのでルーは、気が付かなかった。レザンが足音を忍ばせて背後へ迫っていた事に。首元へ冷たい刃を突き付けられ、身動きが取れないルー。ランディは、横目でルーの状態を確認しながら床に置いた荷物を背負い直す。こんな卑怯な手を使いたくは無かったが背に腹は代えられない。それに自ら手を下すよりもルーの安全は、保障されている。首元に突き付けられているのは、食事用の小刀だった。
「最後に話せて良かった。君も君の幸せを掴んでくれ」
「ランディっ!」
「動くな。指一本でも動かしてみろ。後は、分かるな」
すれ違いざまにランディは、拘束されたルーの耳元でそっと呟く。ルーは、逃れようと必死に身を捩るもレザンは、それを許さない。
「レザンさんっ! 本当にこんな終わりで良いんですか? こんな悲しい終わり方あっちゃいけないっ! 報われるべき者がこんな不遇な最後をっ!」
「そんなもの、どうでも良いのだ。この町は、あの子を救えなかった。只、それだけの事。これ以上、苦しませない為の正しい措置だ。友のお前なら分かる筈。あの子は、解放されたがっている。私は、そんなたった一つのちっぽけな望みを叶える為だけに尽力する」
「この……分からず屋っ!」
完全にランディの足音が遠のくまでルーを拘束し続け、目的が達せられてからやんわりと開放するレザン。解放された途端にルーは、レザンの胸倉を掴んで唸る。じっと睨み付けて来るルーに対してレザンは、徹底して冷静に対応する。
「もう、終わった事だ。全てが遅かったのだ。私は、あの子が苦しむ姿をもう見たくない」
「何でも知った様な顔をして……大人ぶって正論を翳すいつものレザンさんは何処へ? これの何処が正しいのですか? 正しさなんて何処にも無いっ!」
「私を含めて町の者……いや、全てがあの子を煩わせる。勝手に小さな期待を寄せた結果が今だ。それが分からぬ訳ではあるまい? お前だってそうだ。あの子に願ったのだろう?」
「……」
「今に限った事ではない。約束されていたのだ。それが早いか遅いかだけの話」
どれだけルーが喚こうとも関係ない。レザンは、ランディの意思を尊重する。一度も我儘を言って来なかったランディが最初で最後の願い。レザンは、その先に待つ結末がどんなものであろうと叶えてやりたいのだ。
「好い加減、大人になれ。最早、駄々をこねて思った事が叶う年ではない」
「……悔しくは無いのですか? 悲しくもないのですか? 苦しくないのですか?」
「生憎、そんな感情はとうの昔に捨て去った」
「嘘だっ! レザンさんだって僕と同じ筈ですっ!」
本音と嘘が入り交じり、覆い隠す。レザンの本心をルーは聞きたかった。だから己から曝け出す。どれだけ情けない姿を見せる羽目になっても。目の前の老人のようにはなりたくなった。表情を偽っていても瞳から悔しさが滲み出る老人のようには。
「少なくとも僕は……僕は、悔しいです」
これが最後などとルーは、認めたくないのだ。
「大切な友と永久の別れなんて」
「何れ、時間が解決する……」
「僕は、そんな風になりたくない」
出会いと別れは付き物。
そう諭そうとするレザンにルーは、歯を食い縛り首を大きく横に振る。
「僕は、最後まで信じます。人の心に善意がある事を。絶対に……誰もアイツを放って置かない。一人ぼっちにさせやしない。真に救われるべきは、アイツなんです」
意固地になるルーに業を煮やしたレザンは、拳を握りしめる。
「こんなもの……救いでも何でもな——っ!」
「分かったような口をきくな。お前に何が分かる?」
ルーの言葉を遮り、ぴしゃりと跳ね除けるレザン。だが、その語気には覇気がない。
「分かりますよ……なら何故、レザンさんは涙を流しているんですか?」
「っ!」
自分でも気づかぬ内に流れ出ていた雫を手の甲で掬い、レザンはじっと見つめる。
「本当に何も無かったら流す筈がない。僕は、知っています。どれだけレザンさんがアイツの事を考えているかって。だって……だって本当に大切なモノなんでしょう? こんな事で失っちゃいけない本当に大切なモノなんだ」
全てとは行かぬまでも知っているから譲れないものがある。ルーは、その涙の理由を。出所を知っている。だから自らの手で失わせたくなかった。
「何処で……それを?」
「この前の詰所でブランさんとレザンさんと僕の父が話をしたでしょう。それを僕は、耳にしていました。もし、アイツがこの町を訪れなければ、存在すら知る由も無かった。でもレザンさんは、きちんと巡り合う事が出来ました。そうですよね?」
「……」
「それをアイツに教えてやって下さい。どれだけ時間が掛かってでも。アイツには、必要な事です。自分がどれだけ人を不幸にしてしまっているか。アイツは、身をもってしらなければならない。そうすれば、自分の命を軽んじたりもしないでしょう」
分からせねば。自分の不遇にばかり目が行き、他者を顧みないあの愚か者に。その為にルーは、尽力した。自分だけでは、心もとない事は百も承知。今、この瞬間もランディの足を止めている者がいる。そして、この状況を覆す起死回生の一手も。
「まだ……まだ間に合います。その為に僕は精一杯、準備をしました」
用意した。だからレザンにも見て欲しいとルーは願う。
「行きましょう。レザンさん。この先には、きちんと未来がある」
ルーの意思は揺るがない。
「アイツを救う。本当の物語が」
此処からが本当の戦いだ。
*
『最後まで人頼り』
階段を下り切ったランディは、廊下で後悔する。やはり、自分の手で幕引きをすべきだったのではないかと。しかしルーは、ランディと同じくらいの堅物だ。やり込める自信が無かった。寧ろ、レザンの助け舟が無ければ、自分が折れていたかもしれない。それに後悔した所で己の後ろには引き返す道が無い。先に進むしかないのだ。
「本当に最後まで迷惑を掛けてばかりだった」
「そう思うなら今直ぐにでも考え直せ」
「ノアさん……貴方もですか」
「馬鹿が。俺だって好きでこんな場所へ来た訳じゃない」
最後は、店の正面から。自分なりに最大の敬意を払う為、そう決めていた。だから裏口ではなく店側の戸を開けば、また新たに難関な関門が姿を現す。




