第傪章 境界 6P
「最早、俺は過去です。先達として未来を生かして下さい。頼みます」
「ワタクシは……ワタクシは、諦めません。絶望の淵から引き上げてくれた恩人を見捨てるなど……出来ませんよ。君が何と言おうとも。そうでなければ、ワタクシもこの世界に絶望してしまうから。たった一人のちっぽけな若者すら救えない世界など、あってはならない」
「伝えるべき事は、伝えました。後は、エグリースさんがご判断される事でしょう。ですが、俺が考えを変えるかどうかは、また別の話。無駄な事に時間を費やさないで下さい。願わくば、その労力を別の誰かに。救われるべき者へ手を差し伸べて下さい」
「そんな者は、居りませんよ。君が既に須らく救っております。このワタクシでさえも。真に救われるべきは……君だけなのです」
抽象的な話ではなく、具体的な目標を伝えるべきだろう。気に掛けて欲しい人が居る。手を差し伸べる人は一人でも多い方が良い。その内の一人にエグリースもなって欲しいのだ。
「いいえ、今も傷ついて泣いている子がいます。その子に出来るだけの事をしてあげたいのです。また、まっすぐ前を向いて笑える日が訪れる事が来るように……と」
「もう、フルールは前を向いて歩けます。君が思っている以上にあの子は、強い」
確かに受けた心の傷は、深かった。だが、エグリースは真剣な面持ちで首を横に振る。フルールは、死と向き合う事が出来た。後は、心の準備をして別れを告げるだけ。勿論、本人の気丈さだけではない。犠牲を伴った庇護がフルールを守り続けている。
「君が思っている以上に人とは強いのです」
きっと、一人でも必ず立ち上がって見せるだろう。だからエグリースは、全く心配していない。逆に問題なのは、ランディの方だ。目の前に居る青年は、現実逃避に耽る日々を過ごし、何時まで経っても碌にその死を受け入れようとしない。
「賭けましょう。ワタクシは、まだこの世界に救いがあると信じます。君が絶望した分まで信じます。そして、もしその時が来たのならば……」
「来たとしたら?」
「大人しく救われて下さい」
「……」
法具から手を離し、エグリースは己の両手でランディの右手を包み込む。言う分には、タダの話だ。勝手に言わせておけば良い。エグリースのしつこさに呆れ返るランディ。
「約束ですよ?」
「……俺の意思が介在出来る範疇であれば」
「君と言う子は……手が掛かる子です」
「最後くらい好きにさせて下さい。詰まらない我儘って奴です」
「あれだけ大人ぶって大口を叩いた癖に……本当に君は、レザン氏にそっくりですよ」
「自分が上手く立ち回れる様にするには、使い分けが重要ですからね……良い師に恵まれました。何よりも俺の考えている事をきちんと一から十まで受け止めてくれるのが有難い」
誰よりも己の信条を理解し、尊重してくれた。尊敬する師だ。フルールだけではない。あそこに自分が居座れば、居座る程、迷惑が掛かり続ける。レザンの負担になってはならない。これ以上、レザンを面倒事には巻き込みたくは無かった。
「レザン氏も……君が生きる事をお望みでしょう」
「……どうなんでしょうね? もし、そうだったら本当に申し訳ない事をしてしまったかもしれません。俺の我儘に付き合って貰っているので」
エグリースの何気ない一言が一番、胸に刺さった。
動揺してはならない。ランディは、必死に平静を装う。
「恐らく、それが君の一番罪深い行いでしょう。やはり、今直ぐにでも止めるべきです」
「残念ながらもう、既に準備は整いました。後は、決行するだけです」
「そうですか……」
責任を果たし、自分の居場所も捨てこの町に居る理由も無くなった。後には、引けない。
「ワタクシも君へ伝えるべき事は、伝えました。後は……じっとその時が来る事を待ちます」
「待った所で何も起きませんよ」
「どうでしょうね? 世の中には不思議はつきものです。時に現実は、想像を超えるもの」
エグリースの言う事がランディには、共感出来なかった。これまでの経験上、待って事態が好転した試しが無かったからだ。結果は、自らの手で掴むもの。転がり込んで来るものではない。選択を迫られる前により良き答えを自前で準備する。今回もその一環だ。
「だから君も此処へ訪れたのでしょう? 想像を超えたものが起きて欲しいと信じて」
それは、絶対に叶わない。分かっていたが、願わずにいられない事とは、別次元の話。エグリースと交わした言葉に偽りは存在しない。けれど、本音や本質も存在していない。アンジュと同じ。結局のところ、ランディも己の建前を飾り付けるのに必死なのだ。心の内を覗かれているのではなく、見透かされていた。これ以上、ボロを出さない内に退散せねば。
問い掛けに答える事無く、ランディは、席を立つ。
「それでは……」
「ええ。また、お会いしましょう」
「ははっ……また何てありませんよ」
「いいえ、ありますとも。また、君が元気な姿でこの場所へ礼拝に訪れ、静かに祈りを捧げる日が来る事をワタクシは心待ちにしております」
「……」
そんな日は、未来永劫やって来ない。望まれたとしても叶える心算はない。己の覚悟を試す機会に感謝しつつ、ランディはエグリースから見送られ、礼拝堂を後にする。
*
「そんな顔、すんなよ。俺だって好きでお前と茶をしばいているんじゃない」
「ならあたしがこの場所に居る理由はありませんね? 帰ります」
「君を呼んだのは、僕だ。そして、ノアさんには証人なって貰いたくて居て貰っている」
「私が居る事も忘れないで欲しいかな?」
「無論、ミロワさんもです。僕とノアさんだけが一方的な話をする事が無い様に」
ランディが礼拝堂でエグリースと過ごしていた同じ頃。フルールは、ルーから町の診療所へ呼び出されていた。消毒液独特の臭気が立ち込め、窓が大きく開けられた明るく清潔間のある診察室で待ち構えていたのはルーとヌアールの他に亜麻色の髪を後ろで纏め、大人びた雰囲気を漂わせる妙齢の女性の三人だった。二人と共に居合わせ居ていたのは、診療所で働く看護師のミロワ。看護服を身に纏い、軽く机に腰掛けて腕を組むミロワの横で白衣に袖を通し、椅子に座って足を組みながら煙草を嗜むヌアールと居心地が悪そうに寝台横の隅で壁に背を預けるルー。この場で何が行われるか察したフルールは、眉間に皺をよせ、あからさまに機嫌が悪くなる。踵を返して帰ろうとするもルーにそっと腕を掴まれ、引き留められた。
「……」
顔だけ振り向き、無言でルーを睨み付けるフルール。何も話す事は無い。フルールの顔にはそう書いてあった。だが、そうですかと返す訳にも行かぬ。ルーには、目的があった。かけ違えられた釦を正す為にルーは、此処に居る。涼しげな顔で微笑み、敵意が無い事をフルールへ訴えかけるルー。そんな二人を見てミロワは大きな溜息を一つ。
「ほんと、君って奴は……仰々しく回りくどい手ばっかり使うなあ……そう言う所は、無駄にお父上そっくりだよ。体裁に拘ってばかりでねちっこいとモテないぞ?」
「今、僕の性格に関する事は、関係ないでしょうに……僕は、僕でフルールに話すべき事があるからこうして集まって貰ったのです。出来るだけ公平公正な場で真実を明らかにする為に……起こってしまった間違いを正すべく」
迷う時間ばかりか、あまつさえ手段を選んでいる暇すら無かった。少しでも成功の確率が上がるならばどんな姑息な手でも使う。此処に居るフルール以外の登場人物達は、只の舞台装置に過ぎない。そう。一矢報いる為。封じられた切り札を呼び覚ますきっかけなのだ。




