第傪章 境界 5P
エグリースは十字架から目を離し、誰でもなくランディを見つめる。己が放った言葉が自分へ帰って来た。分かっている。分かっているのだ。だから打たねばならない。この身が。この心が執念に焦がれる前に。万が一、そうなってしまっては取り返しがつかない。
「今の君を見て御覧なさい。君がその化物に成ろうとしてしまっている」
「……おっしゃる通りです。俺は、化物に成り果てました。もう、戻れません」
「まだ、君は化物ではありません。きちんとしたヒトです。戻れます。ええ、戻れますとも。だって君には、踏み止まらせようとしてくれる人が居ますからね。死を越えた先に待つ者しか居なかったワタクシですら踏み止まれた。だからその先に踏み入ってはなりません」
「そうか……俺にも俺を思ってくれる人が居るんですね?」
「居りますとも……だから気を確かに」
ならば、猶更だ。その者達を失う事などあってはならない。そして、目の前に居る己を踏み止まらせようとしてくれるエグリースの為にも。こんなにも素晴らしい宝物に出会えて。
何よりも宝物を守り切れる自分が誇らしく思う。同時に何故、この世界で己にとって掛け替えのないものが奪われてしまったのか。その憤りが再発して胸を突く。奪われた。その事実だけが己に残っている。その事実が己を苦しめる。
「良かった……その掛け替えのないものを自らの手で消す前に……死ぬ事が出来て」
「……ランディ君、何を言って——」
じわじわとランディの瞳が穏やかな茶色から深紅に侵食されて行く。あの日の出来事が走馬灯のように鮮明に脳内を駆け巡る。景色だけではない。匂いも音も握った剣の感触でさえも。矢張りだ。己の中には見境の無い憎しみが巣食っている。素晴らしさが理解出来る程、その素晴らしさを失った悲しみが叫ぶ。この心の矛盾が解消される事は無い。
「本当は、アンジュさんが亡くなったその瞬間、俺はこの世界がどうなっても良いと考えました。間違い続ける事を肯定するこの世界が憎くてたまりませんでした。それこそ、全てを焼き尽くして無かった事にしようと本気で思う程に。でも、最後の最後で踏み止まれた。それは多分……ルーやノアさんのお陰です」
「っ!」
「でも怨念の炎は、まだ俺の心の中で燻り続けています。小さくなっただけで消える事は、一生ない。もし……また、同じ事があったとしたら取り返しのつかない間違いを犯す」
きちんとエグリースに伝えねば。この場にそぐわないぞっとするような負の感情がランディから流れ出す。歯を食い縛り、己を押さえつけるランディ。ランディの異変を察知したエグリースは琥珀色の目を大きく見開き、黙り込む。
「この瞳が赤く染まり……焦がれが燃え広がり、世界を焦土と化す」
「……」
ランディは、その紅く染まった瞳をエグリースへ向ける。暗がりの中で赤い瞳だけが際立ち、エグリースを射抜く。その紅い瞳に魅入られ、エグリースは目が離せない。同時に胸を締め付けられる様な緊張感がエグリースへ襲い掛かる。
「世界を救うのは、俺です。誰でもなく、俺自身がケリをつける事によって達せられる」
「ランディ君、止めなさいっ! 君は、そんな恐ろしい存在ではありません」
「エグリースさん……この目を見てもそれが言えますか?」
まだ、己を調伏しているから暴走には至らない。されど、一瞬でも気を緩めれば、感情の濁流に飲み込まれて我を失う。じわじわと出所の分からない高揚感が心を支配する。その先にあるのは、命尽きるまで継続される無差別な殺戮だ。
「これが……奪う事しか知らず、決して満たされぬ負の象徴です」
気味の悪い歪んだ薄笑い。自嘲だ。どれだけ大口を叩いても中身は、詰まらない俗物である事に変わりない。恵まれた境遇の中でこれまで運良く表に出て来なかっただけだ。こんなにも簡単に染まってしまう。ましてや、これは己の意思で引き出してしまっている。
どうしようもなく。救いがたい。愚か者だ。
「このままでは、俺自身の手で際限なく不幸をばら撒いてしまいます」
「どうしても……どうしても駄目なのですか?」
恐怖を紛らわす為にエグリースは、胸元の法具を骨ばった右手で力強く握りしめる。握りしめた手の痛みがエグリースを現実へ一気に引き戻す。
「……ワタクシには、君を救う手立ては残されていないのですか?」
恐怖に何とか打ち勝ったエグリースは、声を震わせながら言葉を紡ぐ。
「こんな事は……あんまりです。誰よりも優しい筈の君が……誰よりも慈悲の心を持つ君が。そんな憎悪を抱えてはいけません」
「正しくあろうとした愚者の末路ですよ……これが」
全て己が招いた結果だ。これまで己が否定して来た者達と同様に断罪される時が来た。それらと唯一、決定的な違いがあるとすれば、間違いを犯す前に己の手で終止符を打つ事が出来る。たったそれだけ違いが明暗を分けた。
「人の心は、表裏一体。俺の背後には亡者が蠢いています。その亡者達の叫びが耳にこびりついて離れません。人を生かす為に人を殺めた矛盾。それが俺の本性です」
理由はどうあれ、競い合い己の独善を押し付け合った結果に過ぎない。
「もしかしたら民主的な物差しで測る正当性と不当性においては、大多数の人が肯定してくれるのかもしれません。けれど、この手に掛けた人々にもそれぞれ、己が信ずる正しさが確かに存在したのです。それを奪った事には、変わりありません」
知っているからこそ、縋っていた。確かに存在していた。それを自らの手で踏み躙った。
「これまでは、己の信念に従い、僅かな自尊心が存在したからその矛盾にも立ち向かえたのです。けれど今回の一件でその信念すらも砕け散った……そうなれば、これまでの犠牲を己の手で否定する形となってしまいます。崩壊は、近い」
漠然とした世界で己が生きても良いと肯定してくれるものを失った今、存在価値は皆無となったのだ。だから今度は、己が己を否定しなければならない。それがこれまで否定して来た者達へせめてもの礼儀であり、目を背けて来た罪の意識に対するケジメだ。
「自分の事は、自分が一番分かっています。この怒りの矛先は、自分に向かうべきであると。誰かに向けて良いモノではないのです。ちっぽけな独善でしかないのだから」
「……君は、満足なのですか? そんな結末で」
「ええ、満足です。少なくとも己が責任を取れる範疇で納まってくれているのですから」
誰の手に委ねる訳でもなく、己の意思決定が反映され、身を引けるのだから幸福なのだ。態々、剣と天秤を携えた女神の裁量を待つ必要も無い。赤の他人から断片的な情報だけで安易な断定を受け、お前はこう言う人間なのだと揶揄されるまでもなく、己が何者であるかは、己が一番よく知っている。
「エグリースさん……俺からお願い事があります」
「何でしょう?」
「もし、この出来事を悲劇と捉えて下さるならば……これ以上、俺みたいな奴が生まれぬよう導いて上げて欲しいです。例え、人々の中で苦悶に満ちた俺が生き続ける事になったとしても俺は、納得します。教訓として皆さんの中で生き続けるのなら……それで。他の誰かが同じような道を辿る事があってはいけません。この一歩を踏み出す前に止めて下さい」
ランディは、自分の居ないこれからの事をエグリースへ託す。長く苦しみの中で生き続けて来たエグリースなら成し遂げられると確信があった。願いを言葉として紡ぐ毎に心が落ち着きを取り戻し、瞳の色はまた穏やかな茶色へ戻って行く。




