第傪章 境界 2P
「でも……もう、遅いんだ。全てが……何もかもが台無しになった。俺の所為で」
皆が諦めるまで何度でも。例え、呆れ果てられても。同じ事の繰り返しだ。
「まだ、そんな事が言える? 馬鹿ね。寝言も大概になさい。聞き飽きたわ」
「妄言でも寝言でもない。列記とした事実だ。君も好い加減、俺に構うのは止めた方が良い。ただでさえ、町は俺の事で神経を尖らせている。このままだと、君まで針の筵だ」
「そんな事は無いわ。あなた一人で町を騒々しく出来る訳がない。もし、そうだったとしても私が気にするとでも思ってるワケ?」
分かっている。だが、それはランディの望むものではない。苦しむのは、自分一人だけで良い。誰も巻き添えにしたくないのだ。その熱意を別なものへ向けて欲しい。平穏な生活が待っているのならば、それを選ぶ事が最良の判断だ。
「いや、俺が気にするんだ。心配で仕方がない」
「自分の体すらマトモに管理出来ない馬鹿から心配される謂れはないのよ」
「聞き分けの無い子だよ。君は——」
すっと立ち上がり、シトロンは馬乗りになると襟元を握りしめ、ランディをベッドへ押し付ける。力で押し切られ、壁に頭をぶつけるのと同時に視界が暗転する。肌の感覚と匂い、そして音のみが外界を感知する。距離が近く、シトロンの香水が鼻を擽る。それから顔の上に無数の雫が零れ落ちて来た。小さな泣き声を漏らすシトロン。ぼんやりと視界が戻ると顔をくしゃくしゃにしたシトロンが見える。
「お願いだからっ! 私の言う事、聞いてっ! ずっと、我慢したっ! 我慢したのっ!」
ランディの胸を叩き、シトロンは心労を吐露した。これまで溜めに溜めた憂い、怒り、悲しみが溢れ出て来る。苦しめているのは、紛れもなくランディ自身。もし己が関わる記憶全てを取り去れば、救われるのだろうか。シトロンの尊厳を踏み躙ってでも禁忌を犯すべきか迷う。このままでは良くない。己が望みを叶える気が無い今、それが正しく思えてしまう。
「どれだけ私が心配したか……どれだけ悩んだか。ランディは知らないっ! 本当は、ずっとあなたの傍に居たかった。支えてあげたかった。何度も皆から止められた。今は、そっとしてあげなさいって! でも全然、良くならなかった。寧ろ、悪くなる一方」
襟元から両手を離し、ランディの両頬へそっと手を添えるシトロン。本当ならば、怒りの矛先は、別の誰かに向けたいのだろう。だが、ランディの意思を尊重し、シトロンはこの場で留めてくれた。だからランディは、渦巻く感情を全て受け止めねばならない。
「もう限界なんでしょ? 体も……心も。どう言う理屈か分からないけど、怪我も無かった様に振舞って……その所為でふらついて……ご飯もマトモに食べられてないっ! おまけにあの事件の所為で夜も魘されて寝れてもないっ!」
その通りだ。反論の余地も無い。情けない事に否定する気力も湧かない。一通り、全てを吐き出したシトロンは、肩で息をしながら落ち着きを取り戻す。止まらない涙を必死に拭い、シトロンは微笑む。落ちた白粉の下から目元の隈が顔を覗かせる。
「今からでも間に合う。私とノアさんの所へ行って悪い所全部、治して貰いましょ? 動けないかもしれないと思って——」
ランディの上体を引き起こしてからシトロンは、又もや立ち上がると持って来た籠の中身をランディに見せる。中身は、消化に良い病人食が入っていた。深い皿に盛り付けられた料理は、さぞ手の込んだものに違いない。体に問題がなければ、腹が鳴っていただろう。
「ほら……これ、見てよ。頑張って作って来たの」
ベッドへ座り、甲斐甲斐しく椅子の上に料理を広げるシトロン。
「ちょっとでも良いから食べて……少し休んだらきちんと診て貰うの」
シトロンの厚意を無碍にする訳にも行かず、匙に掬われて口元へ運ばれた粥を口の中へ。
「ほら……食べて」
飲み込もうとした瞬間、咳込んで口元を手で押さえるランディ。背中を丸め、苦しむランディの背を慌てながらシトロンは摩る。吐しゃ物に交じる赤黒い液体。口の端に拭った血が薄く尾を引く。悲惨な現実をシトロンは、目の当たりにしてしまう。
「もう、駄目ね。こぼさないでよ」
「すっ……済まない」
平静を取り繕ってもシトロンの声は、自然と震え、上擦ってしまう。籠の中に入っていたハンカチでランディの手を優しく拭うも動揺は、隠しきれない。自分で後始末も出来ず、ランディは息を切らしながら謝るだけ。
「……何でよ? 何でご飯食べたくらいで口から血が出るの?」
「言った……だろ? 後戻りは出来ないって」
「そんな事ない……まだ、間に合うわ」
自分の体の事は、自分が一番知っている心算だ。終わりは、確実に迫っている。食事を絶っているのではなく、身体が受け付けなくっていた。苦々しく笑うランディ。シトロンは未だ、現実を受け止め切れず、ランディの顔をぼんやりと眺めるばかり。
「まあ、何とかなりそうに見えて何とかなりそうにない。君の言った通りだよ。見る目があるね。我ながら全くもって不甲斐ない。体中が痛い。頭も……全部。ほんとは、喋るのもやっと……悪夢で魘されるまでもなく、眠る事すらままならない」
今、この瞬間も命を削ってシトロンとの時間を作っているのだ。そして、この時間が無駄にならぬよう全力も尽くしている。シトロンが前を向いて明日へ踏み出せる様に。それがより良き選択であると信じて。それが出来る子であるとランディは、期待しているのだ。
「もう、直に終わる。それは、自分がよく分かってる」
「何よ。それ……絶対に信じない」
「信じるも信じないも勝手さ。残されてるのは……答え合わせだけ」
そろそろ、頃合いだ。小さな背中を押して一歩足を踏み出させる時だ。自分は、共に先を歩む事が出来ない。自分と同じ道を歩ませてはならない。シトロンには、シトロンの幸せが待って居る。障害となるものは、排除しなければ。それが自分自身だとしても。
「俺の願いは、最後まできちんと生き抜いて出来るだけ自然にその時を迎える事」
「そんな事、絶対に許さないっ!」
「君に許しを請う必要はないさ」
もっとしっくりとした言い方があれば、それを選んだ。けれどもそんなものは、存在しない。冷たいあしらい方だが、無様な姿をこれ以上、晒す訳にも行かない。己の最後を見せてしまえば、癒えぬ傷がシトロンの心に刻まれてしまう。
「……悔いは無いの? やり残した事がいっぱいあるでしょ?」
汚れたハンカチを握りしめながらシトロンは、ランディを睨み付ける。本気で怒っているのだ。自分の命に無責任なランディに対して。
「今の状況から単純に逃げたいだけ。例え、あなたが何と言おうと死んでからじゃあ、遅いの。絶対に後悔する。こんな事で全部、投げ出すって言うワケ?」
「後悔は……尽きないよ。今も……ね。でもそれ以上に俺は、間違い過ぎた。その償いを受けてきっちり清算したい。自分の命を代価にしてでも。それが俺に残された最後に出来る事だから。理解して貰おうだなんて烏滸がましい事は……言わない」
嘘は無い。このまま、生き恥を晒して良い事が起きる事が無い。己の死によって完結する物語があるのだ。純粋な叶わぬ悲恋としてあらねばならぬ。無粋な情報は一切、必要ない。そしてその完結は、ひっそりと誰にも知られない場所が相応しい。
「仕方がないんだ……どんなに高い犠牲を払ってでも失っちゃいけないモノを俺は、失った。これ以上、生き恥を晒したくない。何よりこのまま、無様に生き続ければ……俺は、ヒトの心を失う。ヒトでないバケモノになる。それは絶対にあってはならない。秩序を乱す」
「……」




