第傪章 境界 1P
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出立は、一週間後。レザンの協力もあり、物資の確保は容易であった。今回は、この町へ訪れた時の様に冬の雪山を越える訳でも無い為、全て最低限の数量で良い。その上、土地柄に明るいレザンから近隣の農村を経由する行路の助言も貰った。他にも馬の手配や仕事の肩代わりも引き受けて貰ったお陰で思いの外、早く準備が進む。
手筈の整いに比例してランディの容態も悪化の一途を辿る。日を追う毎に食は細くなり、体が空っぽになって行く気がした。出立の三日前からは、水分のみしか摂取していない。誤魔化していた負傷箇所は少しでも集中が解ければ激痛が走る。『力』の継続使用で頭痛と倦怠感が常に襲い掛かって来る。眩暈や吐血の頻度も以前より酷くなった。日常生活の一場面ですら過酷さが増して宛ら荒行のよう。仕事も手が付かず、気が付けば身を屈めて痛みに堪える日々が続く。されど、心はまだ折れていない。この町を出て次は、何処へ。目的地は無い。安息の地を探す長い旅だ。寧ろ探す道すがら、行き倒れになる可能性が高い。それでも良かった。この町を出さえすればそれで良い。
「……」
町を出るまで残り二日。後、少し。後少しでこの茶番劇も終わる。業務に就こうと着替えをしている途中で最後の二日は、自室でゆっくりと休めとレザンから言い渡された。急な余暇を与えられた所で何処かへ出掛ける心算も毛頭ない。折角の日和。けれども体が思うように動かないので何も楽しめない。悪戯に体力を消耗するだけだ。下着を着ず、辛うじてパンツは着用し、シャツを羽織っただけのランディは、珍しく読書に勤しんでいる。続きを書こうとも考えたが、手元が覚束ないので止めた。特にやりたかった事も無かったので結局、寝床から動かずに出来る読書をしようと決めたのだ。足を投げ出して壁を背凭れにし、書かれている文字を目でなぞるランディ。不意に喉の渇きを覚えた所で一階へ行って何か飲み物でも取りに行こうと考えた所で静寂は消し飛んだ。穏やかな時間が何時までも続くとは、思っていなかった。だが、荒れる銀の風が自室へなだれ込んで来る事も想像していなかった。
「……どうぞ?」
扉から軽いノック音がし、客の来訪を知るランディ。極力人との関りを絶っていたので誰かが訪れる予定は聞いていないし、そもそも約束すらしていない。本を閉じ、姿勢を正してから来訪者を招き入れるランディ。入って来たのは、シトロンだった。今日は踵の高い革靴を履き、生地の薄く胸元が大きく空いた薄紫のドレス姿で髪をやんわりと三つ編みにしている。夏にぴったりの装いではあるものの、少々目のやり場に困る。大きな籠を腕に下げたシトロンは、真っすぐランディを睨み付ける。
「まだ……生きてるみたいね」
「やあ、シトロン。お陰様で頗る元気だよ」
「辛うじて減らず口を叩ける程度ってとこ……ちょっとだけ安心した」
「何だか、俺を病人と勘違いしてないかい? 至って健康だよ」
籠を机に置いてからベッドに歩み寄るとシトロンは、腰を少し屈めながらランディの顔を掴んでじっと様子を伺う。ひんやりとした小さな手に心地良さを覚えながらもランディは、己の身形に気を掛ける。髭も綺麗に剃り、髪も最低限整えてある。服装がだらしない以外は、特に問題ない筈だ。勿論、シトロンが気に掛けている事は、別にある。青白さを通り越して真っ白になった顔色。生気の無い淀んだ茶色の瞳。
その他にも皆から散々、指摘されている異変が盛り沢山だ。
「馬鹿を言うのも大概にして頂戴」
「もしかして……何か嫌な事でもあったかい? 今日は、とてつもなくご機嫌斜め。可愛い顔が台無しだ。勿論、顰め顔の君もそれはそれで麗しいのだけどね」
「うるさい」
雰囲気から苛立っているのが分かる。小さな手をゆっくりと外し、逆に手入れの行き届いた髪を撫でるランディ。弱弱しく微笑みながらおだてるランディに対して何故か瞳を潤ませるシトロン。全てを見透かされている。精一杯、虚勢を張っている事も。体の事も。全てだ。今更、隠し立ても無理だろう。出来るだけ穏便にお帰り頂く事が懸命だ。互いの精神衛生上、宜しくない。何か上手い手は無いかとランディは、考える。
「ああ、申し訳ない。来客を想定してなかった。今、準備するから——」
「今直ぐ其処で横になりなさい」
丁度、飲み物を取りに行こうと考えていたので時間稼ぎの為にシトロンの分も準備をしようと立ち上がるランディ。するとそれまで大人しく頭を撫でられていたシトロンがランディの両肩に手を置き、また座らせる。それからランディの横に置かれてあった本も取り上げて机の上へ。胸元で腕を組み、これ以上は何もさせないとばかりに仁王立ちをするシトロン。態度が急変した事にランディは、首を傾げる。
「急に何だい? ……なんで本も取り上げるのさ?」
「……あなた、その顔で健康なんて白々しく言えたわね? 顔面蒼白で頬もこけておまけに目の下の隈も酷い。数日で其処まで人相が変わる人が居るなんてびっくりよ」
「—— まあ、俺も色々あったからね。疲れが出てるんだよ。見た目だけで大した事はっ!」
「……これでも少しは猶予をあげた心算。だけど、我慢の限界。ほんとのほんとに限界。もう、許せない。このまま何もしない心算? きちんと治療を受けなさい」
気を落ち着かせる為、シャツのポケットから取り出そうとした煙草も呆気なく取り上げられてしまった。干からびたランディの手に頬擦りするシトロン。
「ははっ—— 君に心配されるような事は無いよ」
「……本気で言ってるの。ほんとのほんとに—— 死んじゃう」
「……」
思っていた以上に根が深い。頑としてシトロンは、己の意思を曲げない。何よりもシトロンのきづかいで心が痛い。こうなる事は分かっていた。先延ばしにせず、早めに手を打つべきだったとランディは、後悔する。
「もう、満足でしょ? これ以上、やる事は何もない。どうしようも無かったの。あなたは、全力で頑張った。誰だってそう言う。誰もこれ以上、あなたが自分を追い込む事なんて望んでない。後は、あなた自身の問題。全部、諦めて……忘れて……流れに身を任せるだけで良い。皆が協力してくれる。時が経てば……全てが元通りだわ」
今にも泣きだしそうな顔でランディの説得を試みるシトロン。今のシトロンに己の選択を解いても無駄だ。最もこのまま、シトロンの望み通り、従う事も出来ない。決別の時を見定めねば。ブランの時と同じ轍を踏む事は、許されない。
「聞き分けの無い子供じゃないから私の言ってる事……分かるでしょ? 大丈夫、大丈夫よ。今度は、私もあなたと一緒に頑張るから。頼って頂戴。もう、独りになんて絶対させない。悲しい事も寂しい事も全部、あなたの前から無くしてあげる」
「……君は、本当に優しい子だね。ありがとう」
「そう。こんな事、一生ない。だから甘んじて受け入れて感謝なさい」
人の温かみに触れてしまったが故に心が揺らぐ。それだけ今のシトロンには、ランディを惹きつけるだけの想いを持っていた。だが、これは己を蝕む毒だ。甘く香しい。己をそれらで満たしてしまいたいと思ってしまう。しかしそれでは自分を堕落させてしまう。
「そう言う素直じゃない所が俺は——」
「好きで居てくれるんでしょ。なら、これからもこれでもかって程、見せたげる」
「そんな未来が待って居るなら……悪くないかもね」
「そうでしょ?」
もし、違う出会い方をしたのならそんな幸せな未来が許されたのかもしれない。きちんと二人の行く末を見送る事が出来たのなら。もし、背負う重責が無かったのならば。己を許す事ができたのならば。出来る訳が無い。心の中でランディは、首を横に振る。