第貳章 満たされる心 5P
「特に問題ありません。いつも通りです」
「嘘をつくな。この一週間、満足に眠れていないだろう。食事も少量しか口をつけていない」
「……そんな時もあります」
「……済まなかった。もっと、言葉を選ぶべきだった。分かっている……分かっている心算だ。お前が己を追い詰める理由も……背負っている覚悟も全て」
「——」
しょうもない嘘も叱らずに許してくれる。他の者ならば、こうも行かない。あれをしろだのこれをしろだのと煩わしい指図をせずに我儘を全て受け入れてくれた。それは、今も変わらない。だからランディの考えも全て読まれている。ブランの様にずけずけと土足で踏み荒らす訳でもなく、適度な距離を保ち、理解の余地を持った上で否定しない。
「いや、これも驕りだ。本当の所は、お前の事を何も分かってやれていない」
「違いますっ! レザンさんはっ! レザンさんは、俺の事をっ!」
だから悲しくなった。恐らく、レザンの求めている理想とはかけ離れた所に自分が位置している。その望みを踏み潰す恩知らずな己が憎い。だが、どうしようもない。心が正しさを叫ぶ限り、甘えは一切、許さない。更に言えば、様々な重圧に耐え切れず、逃げ出したい自分が居た。故にレザンの言葉が心に刺さって痛む。
「少し—— 私の話に耳を傾けろ……ちょっとの間で良い。後生だから」
「はい……」
動揺するランディを宥めつつ、レザンは静かに語り始める。此処で何かをする心算も無い。解決をしようとも思っていない。ただ、レザンは真実を知りたいだけなのだ。己の描くランディが今、目の前に居るランディと同一のものであるか。そして少しでも違いがあるのなら理解したいのだ。その上でこれからどうするべきかをレザンが選ぶ。その為の時間だ。
「お前は、私に肝心な事を何も話さないからな。代わりに私が肝心な事を話したいのだ」
煙草をふかしながら天井を見上げるレザン。実のところ、何処から話すべきかレザンは、迷っていた。レザンの所業は癒えていない傷を広げ、全ての出来事を白日の下に晒す。
ランディに苦痛と屈辱を与える非道な行いだ。だから少しでも言葉を選びたかった。
「これでも色んな所で聞き取りをしたのだ。あの日の出来事を。だが、継ぎ接ぎだらけの事実に私の主観を補っているに過ぎない。間違っていたらその都度、訂正してくれ……お前はあの日、旅立ちを見送る約束をして待ち合わせた二人の所へ向かった。あの青年を止める為に。理由は、分からぬがあの青年は確かに乱心状態だった。フルールへ襲い掛かる直前で何とか間に合い、庇いながら戦へと身を投じ、最後まで青年を取り戻せると信じて戦い抜いた」
「……」
その通りだ。レザンの情報は正しい。今でも覚えている。あの鮮烈な戦いの記憶を。その戦いに悔いは無い。互いに全てを出し切った。一振り、一振りに魂を込めた。鍛錬の成果を試し合えた。己の誇りを掛けた大戦だ。
「その結果今だ。暴走は未然に防がれたが、尊い犠牲が出た。そしてその死を悼む事すらお前は、許されていない。何故なら……」
強いられているのでは無い。己が不始末に対しての帳尻合わせだ。レザンが重く捉えているだけに過ぎない。誰が何と言おうとも己の意思で選んだ責任を全うしているだけ。
「何故ならお前は、フルールがきちんと己の感情へ向き合える様に全ての罪を背負ったからだ。お前が真実を伝え、最後まで戦い抜いた末に人としての一瞬を取り戻した事が知れれば、あの子は、満足に悲しむ事さえ出来なかっただろう」
何故、誰もが己を厳しく叱責しないのか。不思議で仕方が無い。フルールの様に厳しく罵倒してくれた方が幾分か心が安らぐ。罪人としての自分に向き合えるからだ。
「誰が悪い訳でもない。青年の死は、因果によるもので青年があのまま生き続ければ、沢山の者の命が奪われていたかもしれない。そうなれば、感情よりも先に理性が働く。フルールは、感情の整理も出来ず、一生蟠りを抱えて生き……また心から笑える日を迎える事が出来なかったかもしれない。それをお前は未然に防いだ。お前の全てを否定する事で今のフルールは成り立って居る。何とも悲しい話だ」
何を言っても無駄だ。何処までも愚直にレザンは、ランディを肯定してくれる。全てを捨てた筈なのにまだ、希望を見出してしまう。これでは、積み重ねた努力が無駄になる。
「此処までは、ルーやヌアールから聞いた事……済まない。お前の隠したい事であったかもしれない。だが、私は聞かねばならない。お前との契約があるからな……」
その真相に触れられてしまえば、壊れてしまう。だが、知って欲しかった。少しでもこの苦悩が理解して貰えば、己が逃げ出したくなる理由を知って貰えるかもしれない。そんな淡い期待がランディの中で生まれた。
「此処からは、私の想像に過ぎん。だが、これが一番の問題だ。あの青年はお前へ死する道ではなく、生きる道を示した。実際に託された言葉かもしれないし、若しくは青年の犠牲によってお前に植え付けられたのかもしれない。どんな事があろうとも生き続けねばならぬ。死した者が望んだ明日を享受出来る自分は恵まれており……自死を選ぶ事は、許されない」
そうだ。その呪いがある限り、最後まで足掻き続けねばならぬ。気が付けば、ランディの頬を伝って雫が一つ流れていた。感情を押し殺し、無表情で涙を流すランディを見てレザンは、苦しそうに唇を噛み締める。
「……お前は、死ぬ事も生きる事も選べず、苦しみの中に居る。それは、お前の望んだ事でもあるのだろう。そうでなれば、生きる事も出来ない。本当に不器用だよ。お前は」
この苦しみが続く限り、生きていられる。もし、途切れればその時が己の最後。夕日の残滓も途切れ、室内は徐々に暗闇が包み込んで行く。レザンは、机に置かれた蝋燭に火をつける。その明りは、暗闇で迷い続ける己へ道を教えてくれる最後の希望に見えた。
そう。レザンが己の行くべき道を指し示してくれる。
「今ならぬ胸を張って言える。お前は、己の役割を立派に全うしたと。出来るならば、お前から苦しみを取り去ってやりたい。この手で終わらせられるなら……この世界がお前に絶望させ続けるなら全ての軛から解き放たれて欲しいと……そう願って止まない」
気が付けば、二人の手元にあった煙草が燃え尽きていた。燃え滓を灰皿に落とし、新たな煙草を咥えながらレザンは、話を続ける。
「お前は、望まないだろう。私の手で幕を下ろす事など。これだけ苦しみの中に居るのだから最後くらいは、自分で自分の死に場所を選びたいと。そう考える筈だ。お前の全てを私は、肯定する。最後まで目を背けずに見届けてやろう。それがせめてもの手向けだ」
やっとだ。ランディの心が安寧に包まれる。此処まで長い道のりであった。己の心を正しく理解してくれる存在を漸く見つける事が出来た。この不平等で歪な世界から解き放ってくれる者をランディは、待ち侘びていた。
「もう、生きろ……などと生半可な事は言わない。頼むから……救われてくれ」
「ありが……とうございます」
心からの感謝を。これまで見せた事の無い素直な笑顔をランディは、浮かべていた。
「おっしゃる通りです。本当に嬉しいなあ。誰も……分かってくれませんでした。俺を困らせてばかりで共感は、一切ありませんでした。どれだけ正しい事をしても報われない事なんて沢山ある。だからそれを捻じ曲げようと頑張って来ましたが——」