第貳章 満たされる心 4P
振り返ったブランは、悪意に満ちた笑みでランディに対抗する。この難局をどう乗り越えるか試しているのだ。己の意思を突き通すのならば、何があろうとも踏み越えて行けと。これは賭けだ。己の命を対価にランディの覚悟がどれ程のものか確かめる為の。
「これは、僕からの最後の課題。僕が出来る最後のお節介。これを見事、突破出来た暁には、誰が君を認める。この柵をどうする? 今まで通り無策に動いても無駄だ」
手から伸びた光の刃が崩れ、消えて行く。同時にランディの瞳からも蒼が消え失せ、室内の空気も夏を取り戻す。まんまとブランの手腕で袋小路に入ってしまった。これでは、己に科した贖罪が全う出来ない。人としてあろうとするが故に見えない楔が己を縛り付ける。
誰もが絶望しない様に考え得る最善の選択肢を選んでも誰かが己の道を阻む。本当なら今直ぐにでも楽になりたい。自害の選択が過る程、ランディは追い詰められていた。
「僕が要求する事は、一つ。己の手で心の平穏と笑顔を取り戻す事。それ以外は無い。改善の兆候が見られなければ、即座に行動へ移す。僕の要求を素直に飲むか、もう一つの選択を選ぶのもアリだ。と言うか、そっちの方が君にとっては簡単だろう。やろうと思えば、痕跡も残さずに自然死として見せかける事だって出来てしまうのだから」
ブランは、首筋に当てられていたランディの手を掴み、優しく握る。ブランの考えは、伝わって来る。己を生かす為に敢えて非情な悪役を演じているだけだ。だが、その固い意思は、揺るがない。選択を誤れば、即座に実行する心算だ。
「でも果たしてそれは、君の尊ぶ美徳に殉じているのだろうか? 恐らくその選択を選べば、確実に君の瞳は濁ってしまう。僕らの間で交わされた話を聞いたら皆、一様に僕が仕掛けた事だから君は、悪くないと言うだろう。当人の僕だってそう言う。間違いない。でも……君が君を許さない。誰もが認める正当な理由があったとしても」
「……」
この場で何を言っても無駄だ。言葉ではなく、行動で示す必要がある。寧ろ、好都合。舌戦は、性に合わない。動く方が得意分野だ。相手の要求を全て吞まずとも結果を出してしまえばそれで終わり。帳尻合わせは、勝手にやって貰える。
「行くのかい?」
「ブランさんが聞いて欲しい事は、全部吐き出したのでしょう?」
「ああ。でも用事は残っている」
席を立った時点で既に鞄は、回収済み。同時に依頼の品も机に置いたので用事は済んでいる。扉へ向かうランディへブランは、煙草を投げて寄越した。振り向きもせず、ランディは放物線を描いて向かって来る煙草を片手で受け取る。
「君の言いたい事がまだ聞けていない」
「そんな事は、どうでも良いのです。上手くやって見せましょう」
「また、そんな揚げ足取りみたいな事を……頼むから常識の範疇で納めてよ?」
「それでは……」
ランディが去った後、ブランは長椅子から執務用の机に戻り、布張りのゆったりとした肘掛椅子に深く腰を掛けて目を瞑り、脱力する。ブランも気が気で無かったのだ。一寸の迷いも無い殺気。目で追えない達人芸。威圧する蒼い衝動。生きた心地がしなかったのだ。
「——」
狩るものと狩られるもの。敵意を向けられ、嫌と言う程、恐ろしさを思い知らされた。これ程までに死を身近に感じたのは、何時ぶりだろうか。いや、無い。そう思わせる恐怖。二度とこんな綱渡りはしないと心に誓う。少しでも気を紛らわす為に引き出しからパイプを取り出し、ゆっくりと葉を詰めて一服。
『こんなんじゃ、ちょっとの足止めくらいにしかならない』
だが、何も成せなかった訳ではない。僅かながらも時間を稼いだ。此処からは、個々の健闘を期待するしかないのだから。如何せん、ブランでは解決の鍵として作用しない。あくまでも端役の一人。真打は、他に居る。そして、その者に己の真価を気付かせてやる者も。
小片は、揃っている。後は、きちんと当て嵌めるだけ。
「まあ、僕とあの子の関わりなんてそんなものだ。致し方が無い」
目元に深く刻まれた皺を指で揉み解しながらため息を一つ。何とも空しくて仕方がない。もっと、掛けてやる言葉があった筈だ。あんな風に追い詰めるなど本来、あってはならない。だが、己にはそれしか出来ない。何せ、これまでやって来た事と言えば、焚きつける事ばかり。今更、優しい言葉で労った所でそれこそ寒々しい戯言にしかならない。寧ろ、まだ役割が残されていた事を行幸と考えるべきか。
「出来るだけの事は—— やった。後は、頼んだよ」
限られた時間。何としても救わねば。こんな結末など、あってはならない。
パイプをふかしながら最後の最後までブランは、抗うと心に決めた。
*
「仕事は、終わりそうか?」
「ええ。今日も恙なく」
「ならば、そろそろ店を閉めるか……」
配達が終わってからもランディは、雑務を順調に熟して行った。今日も恙なく終わる。書き終わった帳簿を手にしながら窓から差し込む夕日の残滓を眺め、一息つくランディ。裏手の扉から顔を出したレザンがランディへ話しかけて来た。本日の業務が終わった事を報告し、ゆったりとランディは微笑む。こうして仕事に追われている間は、全てを忘れられた。
空き時間は手持ち無沙汰であれやこれやと考えられる時間が増える為、宜しくない。
「強いて挙げるなら明日の納品に備えて倉庫整理が少し必要かもしれませんね」
「お前が配達に向かっている間、私が済ませた」
「これが終わったらやろうと考えていたのですが……済みません」
「いや、私の手が空いていたからだ。別段、お前が気をつかう必要はない」
「はい……」
もっと早くに自分の業務を完遂していれば、レザンの手を煩わせる事など無かった。気落ちするランディへレザンは、気に掛けるなと首を横に振る。何も雑務のほぼ全てを担う必要は無い。確かにこれまでレザンが一人で片づけられており、十分にランディでも熟せる筈だが、レザンも加われば時間が短縮される。寧ろ、仕事の進捗よりもレザンには気がかりな事案がある。それは、ランディの状態だ。
「……最近、根を詰めているな? 少しは、肩の力を抜け」
「そんな訳ではないのですが」
「私には、そう見える。まだ、繁忙期まで長い。此処で気合いを入れ過ぎると潰れるからな」
「気を付けます」
疲れた目元を揉んでランディは、大きくため息を一つ。確かに以前よりも集中しており、疲労が蓄積されている。もっともそれは、仕事の所為だけでは無い。自業自得な側面が大きい。勿論、レザンの手を煩わせる事や心配を掛けさせてしまう素振りは、一切見せていない。
今、この時までは自信を持ってランディは。言えた。
「それに……何だ。体調の方は、どうだ?」
店内へ足を踏み入れたレザンの手には、カップが二つ。何方もカウンターに置いてレザンは、ランディへポケットから取り出した煙草の箱を差し出す。閉店の札を扉に掛けているので煙草も問題ない。ブランから貰った煙草も残っているが、レザンからの厚意は、無碍に出来ない。一本取り出して燐寸で火を灯す。同じくブランも煙草を咥えたのでランディは、燐寸を差し出して火をつける。立ち昇る二本の紫煙。これまでの出来事に対する労いをされている様で少しだけ肩の力が抜けた。当然だ。これまで全力で走り抜けて来た。緊張も緩めず、神経を尖らせ、細心の注意を払って。少しだけ。少しだけなら立ち止まっても良いかもしれない。いや、レザンの気づかいを無碍にする無様だけは晒したくない。誰よりも心を許しているレザンを裏切りたくなかったのだ。




