第貳章 満たされる心 1P
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最高の日々だった。
この上なく。
全てが心地良かった。まるで己だけが世界から切り離された様に。町の全てが自分を居ないモノだと振舞う。誰もが自分に目を合わせる事も無く、会話も形式だけなのが何よりも有難い。異様な静けさが何処へ行こうとも付きまとい、他者からの干渉は一切ない。己の罪と向き合う事が出来た。
望んでいた生き地獄が其処にはあったのだ。誰からも理解される訳が無いと周りと自分の間に壁を作って悦に浸り。気が緩めば、直ぐ脳裏に蘇る鮮烈な命の削り合い。穏やかに眠る事すら許されず、毎晩途切れる事無く、悪夢に魘され、目を覚ましては、意識が途切れ、また夢現の中で己の全てが蹂躙される繰り返し。目元の隈が大きくなるにつれて日に日に精神が侵され、磨り潰されていった。
それで良かった。その無様な日々が無ければ、きっと死を選んでいるに違いない。何が正しかったのか。どうすれば、良かったのか。それら全ての後悔だけが今を繋ぎとめている。勿論、他の者には悟られてはならぬと必死に取り繕い、仕事は続けていた。平凡な日常が織りなす水面下で必死にもがく。己が望んだ事だから。そう言い聞かせて。だが、代償はそれだけでは済まされなかった。
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「……」
気が付けば、既にあの日から一週間が経過していた。今日もいつも通りだ。真っ白なシャツの袖を七分丈までまくり上げ、パンツをズボン吊りで止めた格好でランディは、肩掛けの鞄と共に配達の最中。外は、夏で埋め尽くされている。地面から立ち昇る咽かえるような熱気。頭上の太陽は、燦燦と輝く。逃げ場は、何処にもなく日陰でさえも熱気で参ってしまう。それでも大通りに出れば、町の活気は変わらない。
長い夜を抜けて待ち望んだ朝焼けのその先。
何事も無かった。町は、今もそう振舞い続けている。喪失と無常に苛まれ、悲劇の主人公を気取るランディには、それら全てがどうでも良かった。いや、それが本音ではない。無性に腹立たしくて仕方がない。本来、あって然るべき風景の一つが無くなったのに。何故、喪に服す事すらもしないのか。自分には、出来ない事が出来る筈なのに。利己的な考えだとは、分かっている。この平穏こそが何よりも守りたかったものだ。だから忘れ去られる定めであり、それは至極当然だ。だが、何故かそれが。
悲しくて。苦しくて。仕方がない。彼の存在そのものを否定されている。まざまざとそれを見せつけられている様で。これが本当に自分の望んだモノか、懐疑的になってしまう。己の根底を揺るがす程に代償が大き過ぎた。人々の希望を。望みを一身に受け、実現させる。己の使命は、寄り集まった数多の線を断ち斬らせぬよう守り切る事。しかし今は、その望みがどうしても醜悪に見えてしまう。こんな事の為に犠牲が必要なのかと疑いが尽きない。肯定されても否定されても納得が行かぬ。
もし。
もし叶うのなら。
誰かに共感して欲しい。
「ふっ」
雑踏の中で一人。ランディは、自嘲する。甘えなど許されない。全ては、自分が至らなかった結果だ。化物に感傷は、必要ない。もし、醜悪に見えるならそれは、己の醜悪さがそう見せている。嘗ての自分が言った。誰かを自分と世界の間に挟んでろ過しなければ生きて行けぬ程、弱くないと。恐らく、これも間違いなのだろう。このままでは、自分が恐れた名も無き化物になってしまうに違いない。飽くなき希望を求め、固執の峰。その先に待つは、痼疾。それでも望みはある。少なくとも小さな希望の火は、今も消えずに燃え続けてくれた。
憎まれても恨まれても構わない。それがせめてもの慰めになるのなら。生きる原動力になるなら喜んで引き受けよう。彼女の世界が平穏で満たされる事を信じて全ての怨嗟と共に心中する覚悟がランディにはある。そして、何時か。何時の日か、自分ではない別の誰かの隣で笑顔を取り戻す日が来ると信じて。
『それが約束』
最後の約束だ。少なくともアンジュは、ランディと交わした約束を果たそうとした。いや、果たしてくれたのだ。最後まで人で在り続け、己の生き様に殉じ、人として立派に生を終えた。だから己も約束を果たさねばならない。どれだけ歪んで歪だったとしても自分らしい答えで報いたい。そうすれば、何時かまた笑い合える日が来る。そう信じて止まない。
「はあああ」
考え事をしながらでも体は、勝手に動いてくれる。配達を幾つか終え、ランディは一息つこうと薄暗い路地裏で煙草に火をつける。
「——っ」
身体に染みわたる心地よさ。立ち昇る紫煙が少しの間だけ安らぎを与えてくれた。
「くっ!」
唐突な眩暈と共に猛烈な頭痛がランディを襲う。暫く痛みを堪えるランディ。それから息が詰まり、体を久野字に曲げながら咳込む。火のついた煙草が手から零れ落ちるのと同時に衝動で口元に手を当てる。やっと呼吸が落ち着いたかとほっと一息を吐くも口の中に鉄臭さが残る。押さえていた手を見てみれば、赤黒い何かがべっとりと付着していた。
「潮時が近い……まあ、俺ももう……持たないだろうなあ」
残された時間は、少ない。どれだけ有効活用出来るかが肝になる。今の自分に何が出来るのか。それは、分からない。だが、何も分からないのは、これまでと同じ。がむしゃらに突き進んで結果を勝ち取って来た。下手な画策をするよりも其方の方が幾分か効果的だ。
「何にせよ……このままでは駄目だ」
用意をし、身の置き場を考えねば。町民の大半は、全容を知らない。表向きは、気の振れた一人の青年が暴走し、それをランディが止め、結果的に不幸が起きたとだけ情報が伝わっており、加えてその出来事にフルールが関わっているのではないかと、町民の間ではまことしやかに囁かれている。実情を知っているのは、ほんの一部。現場に赴いたルーとヌアール。それ以外は、ランディと密接な関係にあるブランとオウル、レザンの三人のみ。当然の事ながらその五人全員が誰に聞かれても口を割らず、噂の的になっているフルールも知らないと一点張り。当事者のランディも微笑み、はぐらかすだけ。
「穏やかに見えるけど……皆、疑心暗鬼で落ち着かないのが本音だろう」
不可思議な事が起きていると直感では察しているのだ。実際、何人かの町民は派手な物音を聞いており、現場にも生々しい痕跡が残されていた。真っすぐに大きくえぐれた地面やナニカ大きな衝撃を受けてひび割れた町の外壁。水で洗い流しきれなかった赤黒い血痕の後。傍から見えれば、不気味で仕方がない。
『憶測が憶測を呼ぶ』
何よりも直近の出来事も相まって騒乱と言う言葉には、町民も神経を擦り減らしている。その言葉が誰よりも身近な己が居る事によって皆の負担になっている可能性が高い。
「早ければ、早い方が無難」
そもそも根無し草で放蕩していた身の上だ。この期に及んで足を止める未練などない。多少、レザンに迷惑を掛けてしまうが、逆を言えば、それだけで損害は収まる。これ以上、負担を掛けない様、取れる方法は一つしかない。何よりも体が言う事を聞く内に。決断したと同時期に体調不良も落ち着き、気合いを入れ直し、ランディは本日最後の配達先へと向かう。
「次は……静かな所が良いなあ」
青い空を見上げながらランディは、ぼんやりと呟く。
最後とは言わない。安易な死を望む事など、生きたくても生きられなかった者に対しての冒涜だ。決して許されない。後悔に後悔を重ね、惨めに藻掻き苦しんだ末の無様な最後で無ければ。それが己に科した物語の結末。
最高の締め括りを。
書き切るのだ。