第壹章 託された望み 10P
ランディの言葉を待たずしてルーの腕を乱暴に振り払ってフルールは再度、拳を振り被ってランディに殴りかかった。鈍い音と共に平衡感覚が失われ、ランディは体が床にたたきつけられる。左の頬が熱を持ち、遅れてやって来た痛みで殴られた事をランディは知る。
「何がっ! 何がっ! 何がっ!」
「くっ!」
拳が真っ赤になり、擦り切れても馬乗りになってランディを殴り続けるフルール。
「もう、止めるんだっ!」
「ルー、邪魔しないでっ! 此奴の所為でっ! アンジュがっ!」
手当たり次第に殴られ、殴打の痣がランディの体に刻まれて行く。話の流れに飲まれていたルーが我に返ってフルールを羽交い絞めにした。
「ランディっ! 外に出るんだ。早くっ!」
フルールを床に押さえつけながらルーが叫ぶ。終わりまできちんと見届けてくれた友へ感謝の気持ちしかない。ランディは、身体を起こしてふらつきつつも何とか扉へ向かう。
「逃げるなあっ!」
扉を閉めて廊下へ出ると、ランディは静かに壁へ寄り掛かってへたり込む。思っていた以上に堪える。フルールに殴られたからではない。心が痛いのだ。
「……っ」
両腕に顔を埋め、歯を食いしばるランディ。己を憐れんではいけない。逝去した友へ涙する事も許されない。傷ついた体を休ませる事も許されない。唯一、自分に許されるのは、罪の意識に塗れ、後悔し、苦痛に喘ぎ、この先が見えない地獄にその身を置く事だけだ。
「どうした? 傷が痛むのか」
「……ノアさん」
「俺の名前を呼んだだけでは、分からん。それでどうなんだ。体の具合は」
「体は、大丈夫ですよ。問題ない。俺を何だと思っているんですか」
声を掛けられるまで気づかなかった。それだけ油断をしていた。いや、消耗していたのだ。
ゆっくりと顔を上げるとランディを見下ろすヌアールの姿があった。皮肉を返す気力も無い。ランディは、微笑みを顔に張り付けて答える。
「ちっぽけな一人の人間。お前が何を背負っていようとも関係ない」
「分かっているのでしょう? あれだけの重傷を負っても尚、動いて話せるんですから」
「それを可能にさせるのが何であろうとだ。俺は、実際にこの目で確認したものを信じる。明らかにさっきまでのお前は、あと一歩で死に掛けていた。お前の言った通り、今この場で話をしている事すら信じられん程にな」
「バケモノだからですよ。今の俺に人から手を差し伸べられる必要はない。俺に気を掛けている暇があるならフルールに時間を費やしてやって下さい」
「至って健康だ。体に異常は、見られない。体には」
「だからです。癒す事の出来ない傷を負って今もこの部屋で涙を流しています」
最早、誰の手を借りる必要も無い。全てを諦めた。命さえも。己に構っている暇があるのならば別な者の為に時間を費やして欲しい。まだ、可能性がある者へ慈愛を。
「馬鹿か。それをどうにかするのがお前の仕事だろう」
「もう、俺に出来る事はありません」
「……何をしたとは聞かない。どうせ、お前の事だ。全てをおっかぶって来たんだろう? そうでなければ、こんな所でへたり込む必要が無い。どうしようもない馬鹿だよ。お前は。そんな事したって何も解決なんぞしない。いっそうのこと真実を全部、話せば良かったんだ」
「それでは……救いが無い。せめても手向けに……二人の思い出を綺麗に飾らなければ」
「それを人は、余計なお世話と言うんだ。お前が粘らなかったらあの青年は、化物としてその身が潰えるまで猛威を振るっていた。だが……お前が最後に人へ戻してやったんだ」
「……」
何も成し遂げていない。誰も納得しない。慰めにもならない。
「簡単な解剖は済ませた。死に至らしめた直接的な原因は、内臓の機能不全。それに体の各所で本来なら致死に至る損傷を無理やり繋げた痕もあったぞ。射創、刺突、裂傷。その他にもあげればキリがない。お前との戦闘で受けた傷なんて生温い。お前が今、動いている以上の驚きだ。そもそも生きている事自体が不可思議な状態だった」
知り得なかった。知っていれば、回避出来たかもしれない。いや、事前に下調べを怠ったが故。自分を過信した慢心だ。未熟さを突き付けられているようで耳を塞ぎたくなる。後味の悪い話だ。ヌアールもそう感じたのだろう。苦々しい表情から伺える。それに加えて気を紛らわす為、手が勝手に胸元の煙草へ吸い寄せられていた。
「……あれが『力』の本質なのか?」
「……」
「過ぎた力ってのは、末恐ろしいな。人がどうこう出来るもんじゃない」
ヌアールの言うような生温いものではない。あれは、力ではなく呪いなのだ。
「お前らの事情を一から十まで知っている訳じゃない。だが、これだけは分かる。この結末は、避けられなかった。この世界の誰だろうとだ。お前だから被害が無く終わったんだ」
何を言われても響かない。寧ろ、自責の念が積み重なるばかりだ。
「今から柄にもない事を言う。よく聞け—— 今日、お前は二人の命を救った。青年は、人らしさを失う事無く、人としての生を終え、フルールの死をきっちり食い止めた。それは胸を張るべき行いだ。例え、それが望んでいた結果で無いとしても……」
頭の中がぐちゃぐちゃで吐き気が胸を込み上げる。張り付けていた笑顔がこのままでは、剥がれてしまう。歯を食いしばり、ランディは意地でも気力を振り絞る。
「やめろ。そんな顔をすんじゃない。お前は、悪くない。自分を責めるな」
「違います。俺は、間違いです。罪人と名指しされるのも生温い……本来ならば断罪を受ける事すら叶わない。存在を許されない化物です。本当にどうしようもない」
「っ!」
所詮は、驕児の甘ったれた戯言。だが、そんな簡単な言葉では簡単に片づけられない。人が一人亡くなっている事実が重くのしかかる。
「その手から命が零れ落ちるのがお前だけだと思うな。俺だってそうだ。救えない命なんてごまんとある。それこそ—— 人の死は、当たり前の事だ。毎日、誰かが死んで誰かが生まれている。誰も逆らえない。それがこの世界の摂理だ。早いか、遅いかだけの違いしかない」
勿論、命の重みを知るヌアールにだって共感出来る。しかしそれを今、認めてしまえば目の前のランディを失う。例え、独善にまみれた言葉であっても。
「お前には、使命がある。死した者の分も生きた証を残す大切な使命が」
「そんなもの……」
「今は、分からなくても良い。見ない振り、知らない振りをしても構わん。どれだけ時間が掛かっても良い。だが、きちんと受け入れろ」
後、何度繰り返せば良い。恐らく、ヌアールに問い合わせても取り合ってくれないだろう。
ヌアールですら分からないのだから。
「最後に……お前が本来、すべきだった事を教えてやる。隣に座って一緒に故人を惜しんで泣いてやる事だった。たったそれだけで良かったのに—— 話を余計に拗らせやがって」
何も分かっていない。これでこの憤りも何度目だろうか。数えるのも飽きた。
「大馬鹿野郎」
立ち去るヌアールを見送り、またランディは膝に顔を埋める。
「そんな事が許される訳が無い……許されて良い筈がない。世界は、そんなに優しいもんなんかじゃない。それなら……それなら何で」
救いが無い。
「何でこんな結末を突き付けられなきゃいけないんだ」
背負いきれる気がしないのだ。
「アンジュさん、無理だよ……何でこんな肝心な時に居てくれないんだ」
立ち上がる気力も湧かない。
「頼むから俺を勇気づけておくれよ——」
答えは返って来ない。
だが、もうやるべき事は終えた。
後に待つは、救済と断罪。
終わりの時は、着実に迫っていた。




