第壹章 託された望み 9P
額に手を当てながらたどたどしく言葉を紡ぐフルール。その先の展開を聞くのがランディは、怖かった。夢の話を聞いた後、どんな顔をして伝えれば良いか分からない。
「深い霧の中で二人きり。……離れた所でずっと微笑んでて。それから手を振って……踵を返すとどんどん霧の奥深くへ歩いて行ってしまうの。走って追い掛けても追いつかなくて……手を伸ばしても届かない」
いや、己が伝えるまでも無かった。フルールは、きちんと辿り着いていたのだから。
「……あれ? あたし、何で」
溢れる涙が止まらない。先走った感情の後を追うように記憶が穴埋めされて行く。
「ああっ—— ああああああああ」
「くっ!」
錯乱し、俯きながら己の肩を抱いて叫ぶフルール。ルーは、深く目を瞑って耐える。一方、ランディはフルールを見つめたまま。不意にフルールが顔を上げてランディの瞳をじっと睨む。身の毛がよだつおぞましい憎悪がランディへ襲い掛かる。やっとその時が来た。待ち焦がれた断罪の時が。これでやっと己の犯した罪の清算が出来る。
「何で忘れてたんだろう? 分かっていた筈じゃない。あんな酷い出来事があったのに」
言い逃れは出来ない。また、心を乱したフルールへかける言葉も無い。どう足搔こうとも後の祭りだ。ランディは、分かっていた。正しさや真実だけを人は求めない。時に人は、己の中にある主観で捉えた事象と整合性のある欺瞞を求める事を。受け入れられない情報を渡しても意味が無い。勿論、それはランディも同じだ。与えられるものは、結局のところ己の中で受け入れられるよう加工された主観的な事象である。何が真実で何が嘘か。
答えられる者など、存在しない。数多の人が辿り着けない命題と言っても過言ではない。
「……アンジュは?」
「彼は——」
「ルー、黙んないで答えてよ」
ルーを問い詰めても答えないので次は、ランディへ。どう答えれば良いのだろうか。改めて考えてみても正解は存在しない。恐らく、どれだけ時間が与えられても見つからないだろう。何を言っても傷つけてしまう。
「ランディ? あれからどうなったの?」
「……」
「あなたが無事って事は、アンジュも? ねえ、答えてよ」
「……」
「……答えて」
「……」
「答えなさいよっ!」
「アンジュさんは……俺が殺した」
「っ!」
そうなれば、矢張り答えは一つ。次へ繋ぐ為の礎に。自分には、出来なかったと素直に認め、誰かが話の続きを紡いでくれる事を祈るしかない。彼は、言った。己の仕事は、他者の心に種を蒔く事だと。ならば、その言葉に殉じよう。最後まで正しくあろうとした己の言葉は正しく作用してくれるに違いない。
「ウソよ……そんなの。生きてるんでしょ? だって約束したじゃない」
「いいや、本当だ。仕方が無かった」
「仕方がないって……そんな言葉で片づけるの?」
何とも馬鹿馬鹿しい。ランディは、そう思った。目の前にいるたった一人を悲しませるだけの存在。それが今の自分だ。思い出しても悲しませてばかりで笑顔を見たのは、数えられる程しかない。止まらぬ涙を拭ってあげられたらどんなに良かっただろうか。
しかし、そんな権利は持ち得ていない。
「死力は尽くした—— けど、取り戻せなかった。全部、俺の失態だ」
怒りと悲しみ、悔しさで我を忘れたフルールへ深々と頭を下げるランディ。あからさまな態度にフルールは、勢い良く布団を跳ね除けて立ち上がるとランディの胸倉を掴んで上体を上げさせる。その茶色の瞳から伝わって来る感情がランディを苦しめる。
「……舐めてんの?」
「事実を述べたまでだ」
低く唸るような声。挫けそうになる心へ鞭を入れ、ランディは意思を貫く。そうではないとフルールは、大きく首を横に振る。どれだけ求められても望む答えは無い。
「道理を捻じ曲げてまでやるって言ったのは……貴方よ?」
「そうだ。俺だ。でも無理なものは、無理だった」
「ふざけてんじゃ——っ!」
「……フルール、もう止せっ!」
「ルーっ!」
ランディの胸元へ拳を叩きつけるフルール。殺されても致し方が無い。ルーが止めるまでランディは、受け止めた。後ろから腕を回されても尚、勢いは変わらない。暴れるフルールを前にランディは顔色一つ変えずに淡々と己の役を演じ続ける。何処までも他人事で感情に寄り添わない冷酷な役柄。それが今の自分に相応しい。
「フルール……静かに聞いてくれ。決着がついて今際の際に自我を取り戻したアンジュさんは、最後まで君の事を気にかけていた。君の幸せを願って——」
「聞きたくないっ!」
「君の幸せを願っていた。そして、俺に助力をするようにとも」
「そんなものっ! あたし、欲しくないっ!」
突き抜けてしまえば、清々しさに似た感覚が心を満たす。育て上げた信頼関係を自らの手で握り潰す感覚。壊れる瞬間など、実に呆気ないもの。だが、その崩壊にしかない甘美な解放感も確かに存在する。
「散々、期待を持たせて……頭を下げればそれで許されるとでも?」
「今更、許されようなんて思ってもいない。アンジュさんは……アンジュさんは、最後まで人として生きる事を望んだ。そして、立派にその意思へ殉じた。俺には、止める事が出来なかった。アンジュさんの悲願は……俺ナシでは、達成出来ないものだったから」
やろうと思えば、出来なくもない。新たな自分の一面をランディは、知った。以前の自分ならば、きっと良心の呵責に苛まれて口を噤んでいただろう。この町に来てからと言うもの、着実な成長を実感出来る。
「……嘘よ。あたしは、見た。貴方の本性を……楽しんでた」
「……」
すっと肩の力が抜けて大人しくなるフルール。その瞳には、失望と軽蔑が宿る。
「何時死ぬかも分からない……戦いの最中、貴方の目は、生き生きとしていた。あたしをていの良い理由にして命の奪い合いを心底、楽しんでいたわ。それこそ、自分の命も他人の命も……軽々しく扱っていたの。本当は、望んでる。血で血を洗う闘争を。戦いが貴方を離さないんじゃない。貴方が戦いを離さない」
自分の事を自分以上に分かってくれる存在。以前のそれとは格別で一切の迷いも無い。引き留める言葉ではなく、認識そのもの。引導だ。
「やっぱり、貴方は違う。ヒトじゃない。立派なバケモノ」
「はははっ」
「ランディ—— もう止めるんだ。こんな話し合いに意味はない」
ルーの制止をランディは、手で遮る。これで良い。正しいのだ。
「そうだなあ……俺は興味が無いんだ。自分の存在定義なんて。所詮、己の本質なんて幻想だもの。その時々によって変わる。存在する意義が—— 理由があればそれで」
最後の仕上げだ。これでアンジュの下へ胸を張って向かう事が出来る。
「今の俺は、何だろうね。本当に分からないんだ。正直に言おう。それこそ、ヒトなんて枠組みから外れても良いと思える程に……あの時は、愉快で誇らしかったよ。己の実力を認めて貰うなんてさ……殆ど、無かったから。同時に自分の実力を確かめたかった。何処まで通じるか。だから俺は、アンジュさんに惹かれたんだと。何処までもアンジュさんと俺は、一緒だった。同じ目線で同じ考え方で……利害が一致したっ——」
強かにランディの頬を右手で叩くフルール。ぐちゃぐちゃな泣き顔。アンジュに言いたかった。矢張り、自分には笑顔を二つ揃える事は出来ないと確信した瞬間。
「己惚れるのも……大概にして頂戴。アンジュは、あんたと一緒じゃない。最後まで人で在り続けた。だからこんな不条理も受け入れたの。訳の分からない妄執と独り善がりに取り憑かれたあんたに……アンジュの何が分かるのよっ!」
「……少なくとも最後に託された望みと俺の考えは、共通している。アンジュさん自身も言っていた通りそもそも君に相応しくなかった。次は、必ず相応しい相手を見つければ良い。君は、君の幸せだけを考えれば良い。その為なら俺は、どんな事だって……」




