第壹章 託された望み 7P
避ける事無く、頬を打たれ、派手に倒れるランディ。ヌアールは倒れたランディへゆっくりと近づき、口元に手を当て意識を失った事を確かめた後、応急処置を始める。
「……まだ、息はある。ルー、運ぶぞ」
「はいっ!」
呆然と一連の出来事を眺めていたルーは、ヌアールの言葉で我に返る。
「もっと、穏便な方法がっ!」
「本気だった……殺すつもりでやった。だが、死んでない。つまる所、そう言う事だ」
横で怒鳴るルーへヌアールは振り向きもせず、手当たり次第に傷口の止血をして行く。
「殺らなかったら殺られてたぞ。それくらい気が付け」
「っ!」
粗方手当てが終わり、ランディを背負った後でヌアールは、ルーを睨み付ける。本当に余裕が無かったのだ。並々ならぬヌアールの気迫に当てられてルーは、はっと息を呑む。
「それにそんな悠長な事言ってたら……死ぬぞ。随分とやせ我慢しているからな」
「くそっ!」
「と言うか、これをやせ我慢と言って良いのかも分からん。常人ならとっくに死んでる」
「早くっ! それを言って下さい」
アンジュを置き去りにして二人は、その場を後にする。残された希望を紡ぐ為。やむを得ない判断だった。去り際でルーは、アンジュの方へ振り返ってその姿をしかと眼に焼き付ける。不幸な出来事であった。誰も。本人ですら望まぬ結末。せめて苦難の最後を遂げた先の行く末だけは、穏やかな旅路である事を祈るしかない。そっと目を閉じてルーは、前を向く。
まだ、終わりではない。今にも消えそうな灯を絶やさぬよう。今の自分に出来る事を。
こうして鮮烈な夜明けは、幕を閉じたのであった。
*
長い夢を見ていた。それは、悪夢だった。けれども目を覚ましさえすれば、その悪夢も終わる。また、会える。そう信じて送り出した後。変らぬ穏やかな日常が待って居るのだ。仕事終わりに酒場へ誘って。休みの日に何処かへ出掛ける約束を。時折、近況を報告する手紙を書かねば。長い時を経ても再会し、三人で集まって下らない話をしながら笑う日々の為に。
そんな甘い幻想は、痛みによる目覚めで霧散した。
「っ!」
「目を覚ましたかい?」
「ルー……此処は?」
「診療所」
気が付けば、温かい温もりに囲まれていた。体中の痛みをおして布団を押しのけながら上体を起こすランディ。寝台の横で椅子に座っていたルーは、意識を取り戻したランディを見て安堵の笑みを浮かべる。ぼんやりとした視界で辺りを見渡せば、昼の陽気が差し込む窓が一つある見慣れない簡素な部屋。ツンとした消毒液の臭いが鼻を擽るのでルーの言っている事が正しいと分かる。だが、何故自分がこの場所へ運ばれたか理由は分からない。朝の記憶がすっぱりと抜け落ちてしまっているのだ。
「そうか……」
体中が痛い。頭痛で額に手を当てながらルーの言葉へランディは耳を傾ける。窓から流れ込む風が日除けをはためかせる音しかない静寂を取り戻した世界。だが、何故かしっくり来ない。抜け落ちた記憶がそうさせるのだろうか。
「随分と派手に暴れたね」
「そう—— なのかな? 体中痛いのは分かる」
「危うく死に掛けるとこだった……『力』に救われた」
「そんなにかい?」
「ああ」
服は脱がされており、身体の至る所に包帯が巻かれている。身に纏っているのは、下着と腕に巻かれた見覚えのある血痕の付いた純白のリボンだけ。それ以外、自分の軌跡が何も存在しない。だが、ある筈なのだ。この世界の何処かに。置いて来てしまった何かが。
「確かに—— これは、酷い。暫くは……遊びに出られないなあ」
「仕事も無理だ。絶対安静」
「そうか……フルールに謝らないと。来週、一緒にアンジュさんの手紙を書くって約束してたから。本当は、俺もアンジュさんを見送りたかったなあ」
「っ!」
一時的な記憶喪失に陥っている。ルーは、瞬時に察した。だからこれだけ落ち着いていられるのだ。もし、その忌まわしき記憶が紐解かれれば。此処から先に待つは、地獄。辿り着いてしまえば、ランディは壊れてしまう。それを回避すべく、ルーは黙って対応策を考え始める。事情が分からないランディは、黙ったルーを不思議そうに見つめつつ、言葉を紡ぐ。
「でも—— 二人の間に水を差すのは悪いから。我慢したんだ」
「ランディ……」
「うん? どうしたの?」
「……」
真っ白なリボンをじっと見つめながらランディは、考え込む。このリボンが視界に入る度、言い知れぬ胸騒ぎがするのだ。恐らく、これが鍵なのだ。忘れてはならない出来事。思い出すべき小片が一つずつ埋まる。現実は、少しずつランディを絡めとって行く。
「と言うか、何で俺はこんな身体がボロボロに……確か、今朝は普通に起きて——っ!」
「ランディ。今は、ゆっくりと休め。何も考えるな」
走馬灯の様に今朝の凄惨な記憶の頁が一枚ずつめくられて行った。穏やかなアンジュの寝顔。戦いの一幕。フルールの泣き顔。やっと、理解した。自分が悪夢だと思っていたものが現実であった事に。何もない宙を見つめながら自然と涙が零れ落ちて止まらない。自分が泣いている事にも気づかない。そうだ。自分の願いは届かなかった。
「駄目だ……駄目だよ。行かないでくれ—— 頼む」
掠れた声を絞り出すランディ。腹部の痛みと連動して胸が強烈に痛み出し、ランディは体をくの字に曲げて右手で胸を押さえ、左手で布団を握りしめる。やっと、思い出せた。今まで忘れ、呑気に会話をしていた自分が無性に腹立たしくて仕方が無い。
「やめろ。もう、終わった事だ。自分を責めるんじゃない」
ルーは立ち上がって苦しむランディの背中を摩りながら必死に宥める。
「……アンジュさんは?」
俯いたまま、ランディはアンジュの居場所を問う。最早、それを聞いた所でどうにもならない。手遅れの段階すら疾うに過ぎてしまっている。しかし聞かずにはいられなかった。
「安心して。そのままにはしていない。既に—— 回収して此処に運んでいる。今、ノアさんが丁重に処置をしている最中。町総出で作業もしていて夜までに埋葬される手筈だ」
「っ!」
「落ち着くんだっ! 君は……君は精一杯、頑張った。仕方がない事だったんだ」
「そうか—— 俺は、間違えたのか」
「深く考えるなっ! 君は、決して間違えてなんかいないっ!」
「—— 結果が伴ってない。俺は、フルールを悲しませてしまう。何よりも失ってはならないモノを失った。取り返しのつかない罪だ……」
「そんな事っ!」
過程がどうであろうと、結果が出てしまっている。それを覆す事は出来ない。胸と布団から震える手を放し、じっと見つめる。すると掌に雫が幾つも零れ落ちた。
「どうして俺は、泣いてるんだ? 泣く権利なんてない」
罪の意識が己を苛む。正気に戻った所為で怒りの矛先は全て、己に向けられた。悲しませまいと心に誓った。その誓いを破った償いは、どうすべきか。そんなものは、存在しない。考える前に諦めが勝った。だが、それでは救われない。こんな別れがあってたまるものか。ランディは、必死に思考を巡らせる。
「どうすれば……どうすれば償える?」
「償う罪なんか君にない……あるとすれば、全てを君に背負わせた僕らに責がある。責めるなら自分ではなく、僕らを責めろ。君には、その権利が——」
口角から泡を飛ばし、食って掛かるルーをランディは、じろりと睨む。
「君たちに贖罪が出来るとでも?」
「何とでも—— やってみせる」
「口先だけならね……幾らでも言える。でも、これは俺だけの業だ。誰にも奪わせやしない」
全ては、己のもの。罪であっても自分で考えて選んだ。それは、誰にも奪わせない。
「あの子の……フルールの傷を癒せるのは、俺だけだ。俺しかいない」
例え、それがどんな形になったとしても。