第壹章 託された望み 4P
「早く—— もうじき、アンジュさんが自由になる。今しかない。此処から先は、本当に見境が無い。さっきのやり取りがお遊びに見える程、全力で向かって来るから」
「頼む……縋れるのは、本当に君しかいない」
怪我を押してでも立ち向かうランディを前にルーは、歯を食いしばり、悔しさを押し殺す。
常識を無視した戦いを目にしてしまえば、無理もない。この先、幾重に張り巡らされた死線を潜り抜ける自信と実力が足りないと悟ったのだ。
「これが終わったら一杯付き合え」
「一杯だけじゃ、済まさない……朝までだ。だから—— 生きて帰って来るんだ」
「楽しみにしておくよ」
最後まで生きる事を諦めるなとルーは、ランディへ言外に言い聞かせる。
「合図をする。そしたら後ろを振り向かず、一気に走り抜けるんだ」
「ああ」
ランディの隣で前傾姿勢になったルー。その背中におぶさって静かに眠るフルールを見たランディは何を思ったのか、その髪を撫でてからリボンに手を掛けてそっと解いた。それから腕章の様に右腕へ巻き付ける。もう、フルールにこれは、必要ない。もし、自分とアンジュが帰らぬ人間となれば、このリボンを見る度に思い出してしまうだろう。
「それは……フルールのものだ」
「預けていただけ。今、それを返して貰ったのさ」
「ほんとに君って奴は……目を覚ましたら死ぬほど、怒るぞ」
「まあ、その時はその時だ。後の俺が考えれば良い」
「……」
シャツに沁み込んでいた血が真っ白なリボンにも侵食して所々を赤く染める。もう、後には引き返せない。まるで今のランディを象徴するかのように。
それから一拍置いてランディは、一気に前へと飛び出す。ルーの目には、追いきれなかった。同時に解放されたアンジュもランディを迎え撃って出て来た。今度は、鍔迫り合いも起きず、只管互いの剣が弾かれ合う。それでも二対の剣は勢いが落ちる事無く、何度も襲い掛かる。人間離れした速度と挙動。旋技など、隙が大きくなる決め手の体捌きすらも幾度となく繰り出され、熾烈な一進一退の攻防戦が繰り広げられる。
「っ!」
「……」
笑みを浮かべていたアンジュも息を荒げて鬼の形相でランディに食らいつく。先ほどまで開いていた実力差は拮抗し、寧ろランディが追い抜いてしまっている。全く届かなかった刃が今や、アンジュを劣勢に追い込みつつあった。
「今だ」
ランディは、ルーへ合図を送る。後ろを向いて走り出したルーへアンジュも少しだけ気を取られるがそんなよそ見をランディは、許さない。鍔迫り合いからの押し切りでアンジュ諸共、石垣へ突っ込む。暴れるアンジュを押さえつけて離さない。
「余所見なんてさせやしない。俺だけを見てくれ」
紅い瞳が蒼に魅入られる。燃え盛る紅に対して何処までも深い蒼は、穏やかで静けさに満ち溢れていた。アンジュは、ランディを無理に引き剝がし、剣を振るう。だが、強みであった速さにキレが無い。如何に実力が底上げされても体の限界がある。限界を超えた稼働を維持し続けた故の代償だ。最早、ランディの敵ではない。振り下ろしをさらりと右足を一歩引いて半身になって避け、薙ぎ払いも剣でいなす。返す刃でランディは、剣に己の力を注ぎこんで流れた左腕から肩に掛けて繋がっていた紅い線を纏めて一気に切り払う。すると、アンジュの左腕はだらしなく垂れ下がり、動かなくなる。ランディの目論見通りだ。アンジュの体は、操り人形も同然。糸が切れてしまえば、繋がっていた部位の稼働が止まる。思わぬ展開に今まで徹底抗戦を貫いていたアンジュが初めて後退した。断線した所為で幾ら力を込めようとしても動かない左腕を見つめ、首を傾げる。旗色が悪くなったからと言ってとまるものではなく、又もやランディへと向かって来るアンジュ。
「もう……手品の種明かしもとっくに終わってる」
幾重にも乱雑に繋がった線。数は多いものの、それら全てを断ち切った瞬間、ランディの勝利。次にランディが狙ったのは、剣。紅い線は、王国石を通じて剣にも繋がっていた。恐らく、そのお陰で手元から離れていても瞬時に移動させる事が出来たのだろう。隙を突いてランディは、剣に繋がった線も断ち切った。剣に纏っていた紅い靄も消え去り、綺麗な刀身が剥き出しになる。幾度と剣を交えても傷一つつかなかった理由は、『焦がれ』を剣に纏わせて強度と鋭度の底上げと刀身自体の保護が成されていたから。
追い打ちを掛ける為にランディは、己の剣に力を纏わせた。苦し紛れの袈裟斬りにランディは、己の剣をかち合わせて薄い焼き菓子の様にいとも容易くアンジュの剣を切断する。
折れた剣先は、小さな破片を飛ばしながらランディの後方へ流れ、地面に転がった。
「まだ、やるよね?」
形勢逆転。左腕の機能を失い、剣がほぼ使い物にならなくなってもアンジュの又もや後退を余儀なくされる。だが、肝心の戦意は、折れてくれない。アンジュの意思に関係なく、『焦がれ』がそうさせるのだ。いよいよ、アンジュの手詰まりまで追い込んだ矢先、結晶から残った線を伝って力がアンジュの体へと流れ込んで行く。力の流入は、あまりにも過剰であった。アンジュの体から漏れ出る紅い靄。実体のあるものとして誰にでも観測出来るものとしてこれまで己の体に作用するだけだった『焦がれ』が周囲にまで影響を及ぼし始める。
握っていた剣がするりと地面に落ちた。それからアンジュは、右腕に力を込めてランディへと振るう。するとその手の軌道をなぞる様に紅い光を伴った衝撃波が生じ、ランディに襲い掛かる。焦る事無く、ランディは目の前に迫る衝撃波を剣で薙ぎ払い、かき消す。
『其処までして粘るか……でもこの状況は、非常にマズい』
このまま続ければ、騒ぎを聞きつけた皆が集まってしまう。それは是が非でも回避しなければ。己やアンジュの存在が露呈してしまう事は、本望ではない。
「派手なだけじゃあ、通用しないぞ? 後、静かにしないと皆が来る」
新たな戦力を手にしたアンジュには、また笑みが戻る。まだ、使える右手に紅い靄を結集させ、何をするかと思えば、己の愛剣を模した結晶を作り出して見せた。
「それをやるのは、構わないけど……時間の経過と共に侵食されるよ」
ランディの言った通り、右の手は既に結晶と同化し、その浸食は少しずつ手首を伝ってアンジュの体を蝕む。口元から流れる赤黒い血。力の影響は、臓器にまで達している。其処までして駆り立てるものは、何か。それは、焦がれだけが知る。
『あれじゃあ、体が持たない。損傷した箇所は、一時的に力で誤魔化せるけど』
だが、焦がれを解除した際に反動が襲い掛かるだろう。何も力は全てが万能ではない。痛みの緩和や損傷した箇所の代替も一時的に出来るが、それはあくまでも対症療法に過ぎず、根本的な解決には至らない。時間を掛けて自然治癒力を高める事も可能だが、それは望み薄だ。使えば使う程に頼らざる終えない諸刃の剣。
『まあ……それは俺も一緒か』
少しだけ己の胸部に空いた穴に右手を添えるランディ。それから剣を構え直し、アンジュを迎え撃つ。質量を感じさせない軽やかな剣捌き。だが、ランディも負けていない。互いに決め手に欠ける応戦を繰り広げる。戦えば、戦う程に削れて行く何か。互いに命の炎を燃やして剣を振るう。最早、其処に大義など存在しない。本当の地獄が其処にはあった。
「っ!」
「……」
後が無い。アンジュの浸食は腕を飲み込み、肩口にまで達しようとしている。しかし限界が近いのは、アンジュだけではない。ランディの胸の傷も少しずつまた血が滴り始めていた。




