第壹章 託された望み 1P
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朝は、いつも通りだった。何事も無く目を覚まし、寝台から重い体を起き上がらせ、両手で目頭を擦る。ぼやけた視界がはっきりするまで少し目を瞑る。昨日の酒が残っているのか、思考がはっきりしなかった。年甲斐もなく、燥いでしまったので仕方がない。些細な体の不調も許容範囲内。それから窓から差し込む薄明かりを頼りに殺風景な室内を見渡し、何事も無かった事へ感謝し、今日も一日、何事も無い日常が送れるよう祈る。
時間に余裕があったのでゆったりと出立の準備と身嗜みを整えられた。
それから荷物を扉の横に置き、自然と愛刀へ手を伸ばし、傷一つない事を確認してから腰に据える。準備は万端。
「これで心置きなく、全力を出して彼と果し合いが臨める」
最後に鏡を覗き込んで己の異変にやっと気付く。鏡に写るその瞳は、既に深紅に染まっていたのだ。終わりの始まり。来るべき日の訪れ。断罪の時。それから暫くの間、意識は途絶えた。覚えているのは、早鐘の様に打つ心臓の感覚と全身を駆け巡る耐え難い痛み、酷い頭痛、吐き気。辛うじて意識を取り戻せば、目の前には、己の剣を受け止めるランディと絶望に打ちひしがれるフルールの姿。危うく取り返しのつかない間違いを犯す所であった。約束通り、押し止めてくれた事へ彼には、感謝したい。そして、同時に申し訳なくも思う。結局、ちっぽけな怪物に身をやつして彼の手を汚してしまう愚かな自分が憎い。最後まで希望を持ち、抗おうとするランディ。もう、想い残す事はない。
せめて。心からの善意にだけは、報いたい。
その最後の想いだけは、しっかりと王国の意志へ刻み込まれた。
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どれだけ、時間が経過したのだろう。さっぱり分からない。
「っ!」
しがみつくのが精いっぱいで最早、他へ思考を割り振る事も出来ない。想定していた通りだ。いや、想定よりも猶の事、悪い。目の前の武人は、恐ろしく強かった。一時も気が抜けず、首の皮一枚で繋げるのがやっと。延々と加速する終わりが見えない死闘の中で必然的に次の一手を凌ぎ切る事が目的になっていた。
「くっ!」
今、この瞬間もアンジュの行動を読んで首を狙った横薙ぎを寸での所で躱している。目で追える速度を超えていた。運が良い事に勘が当たってこれまで二、三度命拾いをしている。
だが、次第に追い詰められているのも事実。同じ数だけ避けそびれた怪我が酷く疼いて仕方がない。右二の腕に裂傷を受け、何度か頭部も殴られて片耳もやられている。軽傷に至っては、数え切れない。立っていられる傷で済んだ事自体が奇跡と言っても過言ではない。
「鬱陶しいっ——」
大きく後ろへ一度後退し、汗と共に額から流れる血を雑に袖で拭いながら剣を構えるランディ。鬱陶しいのは、流れる血だけではない。幻聴でなければ、不協和音が頭の中でけたたましく響き、同じく幻覚でなければ、実体が無い判読不能な半透明の短文が瞳に直接映し出されて右から左へ流れて行く。何度か経験しているので理解せずとも意味は、察している。これは、警告だ。己の生命が危ぶまれている事を示唆している。
『でも、あんまり無視も出来ないんだよなあ……』
これらの表示を無視し続けると己の生命兆候らしき計測情報と一緒に短い説明文と選択肢が二つ、目の前に現れる。一つは、緑色の三文字、もう一つは赤字の二文字。赤色の文字を選べば、特に何も起きない。逆に緑色の文字を選べば、『力』が即座に発動する。
『次が来ると—— 非常によろしくない』
そしてこれらの警告へ最後まで抗い、『力』を使わないで居続けると己の意思に関係なく、『力』がひとりでに発動する。そうなれば、誰も止められない。自己防衛の為、体の自由が一時的に全て奪われ、目の前の脅威が完全に消え去るまで淡々と剣を振るう。
『問題は、それだけじゃない。焦がれの本性が……』
只管に拒んだ理由は、それだ。『焦がれ』の前で顕現すれば、もう止まらない。例え、腕が吹き飛んでも足を捥がれようとも取り憑かれた様に猛進し、致命傷を負っても尚、立ち上がる。一時的に死をも超越した戦鬼と化してしまう。以前の賊と同じように人の原型を止められないくらい体を損壊しなければ終わらないのだ。しかしそれは、許されない。
「全くもって割に合わないよ……」
思わず、自然と泣き言が零れ落ちる。このまま、ずるずると戦況を引き連れば、己の命を差し出すだけでは済まされない。此処で己が倒れれば、誰も望まぬ凄惨な殺戮が始まってしまう。何か、効果的な打開策を。若しくは、残酷な選択を。ランディは、追い詰められていた。だが、不意に後ろのフルールを視界の隅に捉えて我に返る。
『状況に……流されちゃあ……ダメだよなあ』
そうだ。無理を承知で己の道理を通す為にこの場に立っているのだ。心が折れている暇などない。全ては、たった一人。ただ、君の為に。きっかけは、本当にちっぽけなものから始まっている。それは、至って単純なもので。たった一人を悲しませない為に。たった一人の笑顔を取り戻す。ただ、それだけだ。鮮烈な愉快さに易々と呑まれて死んでやってたまるものか。貰った言葉の一つ一つから力を貰い、勇気を奮い立たせる。滴り落ちる血も構わず、震える両手に今一度、力が戻った。己と同様に傷つき、欠けた相棒を力いっぱい握りしめる。
「ふう——」
辛いのは、己ではない。こんな惨状を見せつけられているフルールが一番辛いのだ。
一方でアンジュも無事では無かった。煌々と太陽の光を浴びて煌めく綺麗な刀身は、今も健在。だがランディの剣撃は通用しないものの、動きが何処かぎこちない。主な原因は、『焦がれ』の継続使用。体が少しずつ限界に近付いている。ほぼ、ランディと同量の血液を流し、各関節や筋肉も酷使しているので当然だ。それは最早、自傷行為に近しい。特に筋肉に関しては消耗し、断裂した箇所を一時的に無理やり繋ぎとめている所為で自然な動作が見られない。このまま続ければ何れ、骨や内臓にまで影響が出てしまうだろう。その結果、少し前までの経験に裏打ちされた冴えわたる剣筋は見る影もなく。単純な自力に上乗せされた力任せで速さだけが取り柄の単調で粗悪な攻め方ばかり。だからこそ、今のランディでも対応が出来たのだ。
『つけいる隙は、其処しかない』
前もって体力を著しく消耗させる動きは極力、避けている。短期決戦を目標にしてはいたものの、手堅い判断と攻め時の見定めは、欠かさなかった。搦め手の可能性が低い今なら真正面から切り崩してランディの剣が届くかもしれない。
「っ!」
先手を取って大振りの一閃を繰り出したアンジュの剣をランディは、緩やかな動作で受け流し、抜けた先で流れに乗って下段からの袈裟斬りを繰り出すもアンジュは、早い。切っ先が下がった所から素早く体を回転し、同じく袈裟斬りで対応する。その反応は、条件刺激と呼ぶべきだろうか。差し迫った脅威へ体が反応を示しているのだ。先ほどまで甘い一手を打とうとした己の頭をランディは思わず、殴りたくなる。
「くっ!」
変わらず狂った笑みを浮かべながらランディを威圧するアンジュ。互いに押しのけ合った末、弾けるように後方へ飛び退き、息抜く暇もなく相手へ肉薄し、切り結ぶ。少しの間、呼吸を止めて剣の体のブレを抑えて正確に狙った箇所へ剣撃を繰り出すランディに対してアンジュは、反射で弾き、手数で攻める。太陽の光を受けて反射した斬撃がランディに降り注ぐ。新たに浅く何か所か裂傷がランディへ刻み込まれる。




