第陸章 避けられぬ払暁 2P
「アンジュさん―― 好い加減、止めてくれよ。今、可愛い女の子を口説いている所なんだ。そんなぐいぐいと押されちゃあ、俺が貴方に押し倒されちゃう。可愛い子、放っておいて俺と朝っぱらからナニをおっぱじめる心算だい?」
重心が右足から左足へ徐々に移って行く。後ろにフルールが居る為、後に引けない。いなそうにも眼前の距離に居るので身動きが取れない。よしんば、躱しきったとしても返す刃でフルールを狙われてしまえば愈々、成す術がない。軽口を叩く余力は、残しているも押し負けそうになるギリギリの所で苦戦を強いられるランディ。
「……まあ、何って言ってもダメだね。今は、冗談一つ通じないか。困ったもんだ」
「ランディっ! 止めてっ! 今のアンジュは、アンジュじゃないっ」
「知ってる。だから止めに来たんだ」
シャツの裾を引っ張り、止め立てに入ろうとするフルール。ランディは、その言葉に耳を貸さず、歯を食いしばって耐え続ける。恐らく、この戦況を打開しても待ち受けるのは、地獄だ。更なる劣勢を強いられるに違いない。だが、ランディは諦めていなかった。
「……避けられぬ悲劇って奴をさ」
瞳に諦めの色は無い。何故ならこの苦難を乗り越えれば、希望に満ちた未来がある。
「なあっ!」
無理に剣を薙いで鍔迫り合いを解くランディ。肩で息をしながらフルールを己の背に隠れるよう気を配りつつ、アンジュの動向を静かに見守る。アンジュは変わらず、冷たい微笑みを浮かべたまま。真っすぐに構えられた剣がランディを威圧する。
「全く……嫌な予感がしたから来てみれば、これだ。どれだけ手が掛かるんだよ?」
「―― ははっ」
「そんなすかした顔して笑わないでさ……何か答えてくれよ。アンジュさん」
此処からが正念場。ランディも剣を構え直す。一足一刀の間合いで互いに向き合う二人。冷や汗が止まらない。恐怖が腹の底からせり上がって来る感覚に苛まれながらも意識は、まだはっきりとしていて打開策を考えていた。理性と感情の狭間でランディは、揺さぶられる。どう切り込むべきか。たった一度の鍔迫り合いだけでも痛感させられた。初めての手合わせが飯事の様に感じられる程、次元が違う。次の手を考えようにも頭の中で想定を組み立てては、全てが覆される。そんな予測ばかりで埋め尽くされて行く。
一瞬、敗北の二文字が脳裏に過る。
「ランディ、ダメ。逃げよっ? 戦っちゃダメ。今のアンジュと戦ったらあなたが――」
ランディの心中を察したのか、胸部へ腕を回し、縋りついて必死に引き留めるフルール。
「分かってるさ。此の侭じゃあ、絶対に勝てっこない……ズルでもしない限りね」
「ならっ!」
今のアンジュには、この世に存在する事象全てが味方に付いている。それに対抗するには、自分も同じ領域まで高める必要があった。だが、その『力』を安易に頼ってはならない理由も同時に存在する。それは、単にフルールに知られたくないなどと言う甘ったれたものではない。
本当の地獄が待つが故。絶対に使ってはならないのだ。
「でも駄目なんだ。到底、逃げられっこない。君を連れてるとか……だけじゃない。アンジュさんは、俺一人でも必ず追い着いて来る。どれだけ足掻いても結果は、同じさ」
「逃げれば……可能性が。誰か助けがくれば」
「ないったらない。俺一人で向かって行った方がまだ、望みはある。単純に頭数で押せる相手じゃない。純粋に戦いだけしか望んでないし、殺める事へ一切の戸惑いもない。おまけに実力も相当なものだから悪戯に犠牲者が増えるだけだ」
逃げた所で根本的な解決には、至らない。寧ろ、被害が増えるばかりで誰も望まない結末が待って居る。こうなってしまえば、フルールを説得出来る材料、何より時間が足りない。
「……それにね。俺は、打ち勝たなくちゃいけないんだ」
「どうして――」
「勝ってアンジュさんを取り戻さないと……」
「その為にランディが犠牲になったら意味がないっ!」
「違うね。今、俺の肩に乗っているのは、アンジュさんのこれからだけじゃない。町の皆や……王国に息衝く人々全ての未来が掛かっているんだ」
「―― えっ?」
最早、ランディの瞳に映るのは、アンジュを通してその先に待つ歪んだ妄執だけ。自分の足元すらも見えてない。何かに取り憑かれたかの様にのめり込むランディに対してフルールは時折、その肩越しに顔を覗かせるのっぺりとして不気味な違和感の正体を見た気がした。ずっと心の奥底に引っ掛かりを感じさせていた言葉に言い表せない自分の想像を超えた異質な何か。それに触れたフルールは、暴走するアンジュ以上に恐怖を感じた。
「今、アンジュさんを取り戻せたなら明るい未来が。失われれば、暗い運命が待って居る」
フルールには、ランディの考えが分からない。今、考えるべきは、目の前の出来事だ。生きるか死ぬかの瀬戸際で別次元の話をしている。死への恐怖が全くない。寧ろ、この状況を楽しんでいる風にしか見えない。蛮勇とも違う狂気の世界が其処には、広がっていた。
「証明したいんだ。俺は、どんな犠牲を払ってでも成し遂げなければならない」
恐らく、自分の意志は、伝わらない。そんな事など、百も承知。だから結果を出して帳尻を合わせる。覚悟は、とうの昔に決めているのだ。ランディの決意は揺るがない。
「……」
もう、自分の声も手も届かない。まるで透明の壁があるかの如く、世界は、隔絶されていた。フルールは、己の無力さに打ちひしがれる。誰も止める事が出来ない。避けられぬ運命。二人の闘争は、兼ねてから約束されていた事を今になってやっと知る。ランディの胸部に回していた腕がゆっくりと力なく垂れ下がり、膝から崩れ落ちるフルール。
「ご丁寧に待ってくれてどうも。意外と余裕があるみたいだ」
「――」
「踏ん張ってるけど、体の自由が利かないって所だね」
フルールと話をしている間、ずっと待っていたアンジュをランディは労う。戦事への執着に抵抗している事からまだ、アンジュの意識が残っていると確証を得た。ならば、まだ遅くはない。己が横槍を入れる隙は残されており、足掻ける。
「もう少し頑張ってくれ。直ぐにその軛から解き放ってみせる。貴方の力は、そんなに万能じゃない。どれだけ強力であっても弱点ってのはあるのさ」
「ランディっ! 待って!」
「ごめんね、フルール。本当は、こうなるんじゃないかって分かってた。これは、俺の所為だ。俺の甘さが招いた悲劇だ。でも、その悲劇をこれから払拭してみせる。また、君たちの笑顔を必ず取り戻して見せる。だから少しの間、待ってて」
「いや。行かないで……」
そうではない。そんなものは、求めていない。その帳尻合わせが間に合わない程、結末が直ぐ其処にまで迫っている。
恐怖、恐怖、恐怖。
心の底から震え上がり、焦燥と恐慌がフルールの頭を埋め尽くす。耳鳴りと心臓を掴まれた様な息苦しさ。必死に空気を取り込もうしても過呼吸になり、何も考えられなくなる。
「大丈夫、絶対に二人で戻って来るから」
「ああっ―― いや、いや、いや―― 止めてっ!」
ぼやける視界。胸元の服を握りしめ、絞り出した途切れ途切れの声。されど。どれだけ叫んだとしてもランディは、振り向きもしない。フルールはこの時、初めてとある言葉の意味を思い知った。絶望と言うこの世で最も耐え難い苦痛を。成す術もなく、全てを蹂躙されるその瞬間を一番の特等席で無理やり瞳に焼き付けさせられる地獄へ招かれた。




