第陸章 避けられぬ払暁 1P
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朝日は、昇る。長い夜の帳が掻き消され、全てが白日の下で明るみとなり、衆目に晒されるのだ。曖昧なものは、全て駆逐され、何かしらその存在を表す目に見えない付箋が貼り付けられる。それは、人も物も関係ない。もっと言えば、関係性も。そう。全ての答え合わせが求められる時であった。これまでの積み重ねが実を結ぶのか。それとも無に帰すか。
その結末を知るのは、かの歌う町のみ。されど、歌う町は静観を貫くだけ。じっとその時を待って居る。頑なにその意思を見せようとしない。
何故なら変えようがないからだ。それは、予てより予定された結末で。もっと大いなる流れによって歪められていた。たった一つのこうであって欲しいと言う望みも。その流れには、逆らえない。時が流れ過ぎた。遡って解決をしようにも全てが遅い。せめてもの救いは、関わった時間。残された最後の時間がどれだけ幸せであったか。それが今からまざまざと理解させられる結末が此処にはあった。
「……遅い」
フルールは、町の正門前で待ち人を探す。やっと長きに渡る軋轢が払拭され、また新しい始まりを迎える事が出来た。まるで陽光は、その喜びを称えるかのようにフルールをただただ照らす。これまで暗雲が立ち込めていた瞳はもうない。
『今度は、必ず――』
そう。昨夜、約束したのだ。きっちりと顔を合わせてサヨナラの挨拶を交わす。そして、また再会の約束を。次に繋げる魔法を互いに掛け合うと。どれだけ時間が経ったとしてもどれだけ環境が変わったとしてもまた合間見え、言葉を交わす。当たり前のようで当たり前でない。掛け替えのない何かが其処にはある。
「何処か変なとこは……ない。バッチリ……」
改めて身嗜みを気にして忙しなく、神を手櫛で撫でつける。
準備は既に整っている。もっと言えば、前日から目の下に隈が残らない様、冷めやまぬ心を必死に抑え付けて睡眠時間も取った。定刻より早く起床し、髪をいつもより長く梳かし、お気に入りの白いリボンで纏めた。化粧にも余念がない。普段、使わない色の頬紅を入れ、少し背伸びして大人びた雰囲気に。馴染みの服も皺ひとつなく、お気に入りの革靴も綺麗に磨いてある。この後に待って居るのは仕事だけ。されど、このたった一時がフルールにとって何よりも肝心な出来事だったのだ。
期待に胸を高鳴らせ、その時を待った。答え合わせの時を。沢山の手助けをして貰い、今に至る。どれだけ無理をさせたか。ひた隠しにしていたが、彼は一人でじっと悩み、予定を立て楽しませるようどんな時も笑顔を絶やさなかった。勿論、普段からもてなす所作を身に着けて居れば、苦労はしなかっただろう。それもこれも身から出た錆だ。だが、時折、疲れの色を見せる程、考えに考え抜いてくれたのだから文句は言えない。寧ろ、感謝しかない。 こうでありたいと言う己の理想を余すところなく受け止め、徹底して黒子を演じ、どんな困難の中にあっても次に繋ぐ道標として導いてくれた。
「だから言わなくっちゃ」
彼が背中を押してくれたのだから。誰よりも身近で。気付けば、傍に。困り事があれば、困った当人でないのにも関わらず、同じ様に困った顔をする。そして最後には解決策を見出してくれる。静かな夜に浮かぶ穏やかな月の様に己を見守り続ける彼へ報いるには。
「あっ――」
遂に待ち人が現れた。薄暗い町並みから。町に蔓延る影に引き込まれる事無く、真っすぐ日の光の下へ。迷わず此方に向かって来る見慣れた格好のその人。顔を俯かせながらも軽快な音を立てながら石畳を踏みしめて外套をはためかせつつ、確実に向かって来るその人を見て自然と笑みが零れる。やっとだ。やっと、その時が来た。待ち望んでいたその時が。
「待たせないでよね――」
「……」
「ほんとは、来ないで行っちゃうかと思った」
「……」
「でも今度は、きちんと来てくれた」
「……」
「約束したもの」
目の前で立ち止まったアンジュの顔を恥ずかしくてきちんと見る事が出来ない。無口な上に荷物も少ない事も気になるが、今はどうでも良い。約束通り顔を見せてくれれば、何でも良かったのだ。持てる全てを費やした自分を見せて少しでもあの時の事を後悔させたかった。あの別れが無ければ、手を取り合って進む未来があり、それがどれだけ輝かしいものであったか。失ったものの大きさを主知らせたかった。それから己がこれから紡ぐ物語を伝えたい。そうだ。伝えたい事は、この手に数え切れぬくらいいっぱいある。されど、時間が限られていた。だから今は、絶対に伝えねばならぬ事に絞って言葉にする。
「だから次も約束。また、会おうって約束。どんなに時が経ってもまた、この町で」
「……」
「何よ? さっきから無言で。何か言ってよ。これでもきちんと格好頑張ったんだから」
何時まで経っても返事が返って来ない事へ耐え切れず、フルールは顔を上げる。目に映ったのは、不穏な雰囲気を漂わせ、俯くアンジュの姿。ふらふらと体を揺らし、落ち着きが無い。そして何故か外套の隙間から飛び出した剣の柄頭に手を添えている。
「……アンジュ?」
フルールの呼びかけに反応し、俯いていた顔を上げるアンジュ。前髪で隠れていたその瞳を見た瞬間、フルールは今までに感じた事の無い恐怖が体を駆け巡る。アンジュの瞳に宿る淀みのない紅。フルールは、目を奪われてしまう。怪しげな笑みを浮かべ、腰に据えた剣の握りへ徐に手を添える。ゆっくりと剣が鞘から解き放たれ、白銀の刀身がその姿を現す。手入れの行き届いた剣は、陽の光を受けて輝く。気が付けば、握りに両手を添えて何処までも真っすぐな刀身がアンジュの頭上に。
フルールは、身じろぎすら出来ず、ただただ茫然と目を見開き、アンジュを見続けている。現実を受け止められない。信じたくない現実が其処にはあった。何の躊躇いも無く、振り下ろされる凶器の前にフルールは、立ち尽くし、目を瞑る。痛いのだろうか。いや、きっと痛い。鮮烈な一撃を受けてきっと己は、真っ赤な花を咲かせるだろう。これで良かったのだろうかと、フルールは自問自答する。何も間違いは、無かった。手は、尽した。それで駄目だったのなら仕方がない。諦めが全てを覆してしまった。
『ああ―― ほんとにだめだなあ』
最早、絶望しかない。残された数少ない時間の中でフルールの脳裏に走馬灯が駆け巡る。楽しい思い出も悲しい経験も関係なく。己の全てがあった。そして、最後の最後に浮かんだのは。優しげに微笑み、首を傾げる彼の顔。その顔が思い浮かんだのと同時に金属同士がぶつかり合う甲高い音がフルールの耳に届いた。目をぎゅっと瞑って居たフルールは、恐る恐る茶色い瞳を開けた。視界が開けると其処には、見慣れた頼もしい背中が見える。
「―― 何とかっ! ぎりぎりで間に合ったみたいだね」
「ラン……ディ――?」
「やあ、フルール。今日は、何時もより数段めかし込んでるね」
緊迫した状況でも振り向きざまに詰まらない冗談を言う。だが、自分と同じ色をした揺るぎないその瞳が冷え切ったフルールを温めてくれた。アンジュの一振りを受け止めたのは、ランディだった。急いで来たのか、辛うじてパンツと靴を履いているもシャツは、羽織っているだけ。髪と髭は整えてあり、朝の支度途中であった事が伺える。どうして危険を察知出来たか。その他にも聞きたい事は、山ほどあるが今はどうでも良かった。
「っ!」
鍔迫り合いに持ち込み、完全に受けきっているものの、力押しではアンジュに分があるのか時折、苦悶の表情を浮かべるランディ。一方、アンジュは予期せぬランディの登場に目を見開いて狂気に満ちた笑みを浮かべている。




