第伍章 全ては、たった一人。ただ、君の為に。 13P
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フルールとアンジュが話をしていた同時期。手洗いを済ませたランディは、シトロンから呼び出しを受けた。通路にて向かい合う形でばったり出くわした所、無言で手招きをして来るシトロン。素直に従ってみれば、向かう先は、裏手の出口を出て直ぐの細い路地。ランディが扉から出て直ぐにシトロンは、扉を閉めて己の体で塞いでしまう。前髪で瞳を隠し、普段の明るさは見る影もなく、薄暗い路地も相まって徒ならぬ雰囲気を醸し出すシトロン。呼び出された意図が分からず、ランディは首を傾げる。
「どうしたの?」
「……ランディ」
店内の熱気に当てられ火照った体が外の温い風で少しずつ冷えて行く。俯くシトロンへランディは、問いかけるも制服の前掛けを弄りながら口籠るばかり。己が居なくとも二人だけで楽しんでいる筈だ。用件を急かす必要はない。一方でこのまま悪戯に互いの時間を消費してしまうのも面白くはない。シトロンに至っては、勤務中だ。
「……」
「黙ってたら分からないってば……」
まごついてばかりのシトロンの前でランディは、顎に手を掛けて考え込む。自分から仕掛けても意味が無い。じっとシトロンが振り切れるまで待つだけのこの状況がもどかしい。それに加えて先ほどから何故かランディの心がざわつく。妙な焦りを覚えるのは、きっとこの嫌な予感の所為だ。自分の感知していない人の想いがそうさせている。
「これがあなたのしたかった事?」
「そう。あれが俺のしたかった事」
「もう、満足?」
「ああ、満足だよ」
顔を上げてシトロンは、強い意思を持った灰色の瞳でランディを睨み付ける。こうも問い詰められれば、まるで犯罪者にでもなった様な気分になる。新たな騒乱の予感。一つ片付けば、また新たな問題が生まれる。これまでと変わらない。だが、一つだけ決定的な違いがある。今回は、誰でもない自分の所為だ。勝手気ままに振舞った結果、そのツケを払う日が訪れた。それだけの事。もう、祈願は成就したと言っても過言ではない。後は、自分がどうなっても構わない。ランディは、両手を上げて苦笑いを一つ。
「思い残す事は?」
「無いね」
「なら、今度は自分の事へ集中出来る?」
「……出来る」
逃げ道は、既にシトロンによって塞がれている。今日は、楽しく過ごそうと思っていた。重苦しい空気に耐え切れなくなったランディは煙草を咥え、小さな灯を口元に灯す。紫煙を吸い込み、己の思考を濁らせる。残された選択肢は、一つ。このまま出来る限り茶番を続け、有耶無耶にして先延ばしにするだけだ。他にはない。
「なら……もし。もしよ? 最後まで上手くいったらどうするの?」
「本当の最後まで上手くいったら仲人をしないと……うざったくて長ったらしい祝辞を考えて……来るべきハレの日に備えて練習する。それから本番は、感情を込めて聴衆へ語り聞かせ、うんざりした顔を壇上から眺めてうっとりする立派な仕事が俺には、待って居るさ」
「……」
冗談の一つも通じない。勿論、程度の低いものだとは、自分でも分かっている。求められている答えは、違う。好い加減、痺れを切らしてもたれかかっていた扉からランディの下まで来ると襟元を掴んでランディを引き寄せて無言の圧力を掛けるシトロン。魅力的なその瞳を見続ければ、抗えない。ランディは、目を瞑って耐える。
「分かった、分かった。そうじゃないよね。まだ、何も考えてない。予定は、未定」
「……そしたら今度は、私の為に頑張ってよ」
その言葉を待って居たとばかりにシトロンは、揺さぶりを掛けて来た。その言葉が孕む意味は、如何様にでも捉えられる。動揺を隠しきれず、ランディは、瞑っていた目を大きく見開き、煙草が手元から零れ落ちた。
「君の為? 何だい? 内容にもよるけど、俺に出来る事なら対応しよう。君には、かなりお世話になっているからね。大船に乗った心算で頼ってよ」
「……などと小さくて今にも沈みそうな手漕ぎ舟が世迷言を申して居る」
「はい、はい。そうですよ……」
折角、冷えた体が再び熱を帯びて額に汗が浮かぶ。
その望みを問えと言外に訴えかけて来るシトロン。
「―― で、ご依頼はどんな内容かな?」
「……」
「言い辛い? 君のそのもじもじした様子から想像するに。もしかして……好きな人でも出来た? それは、喜ばしい事だね。是非ともお手伝いをさせて貰いたい」
「いいえ、違います。私……本当に好きになれる人を探しているの。自分がどうすれば、人を好きになれるか。それが知りたい。だから沢山、色んな事を試したい」
一気にまくし立てたシトロンは頬を赤く染め、恥じらう。逆にランディとんでもない無理難題を突き付けられ、困り果て額に手を当てる。願いが漠然としていて何処から手を付ければ良いか分からないし、教えろと言われてもランディにも分からない事ばかりだ。
「難しくない? だって相手が居ない事には、話が始まらないだろう?」
「ランディにやって欲しい。私が何処か行きたいって言ったら私の手を引いて連れてって。私があれをしたいって言ったら一緒に笑いながら付き合って。私が詰まんない我儘を言ったらげんなりした顔をしながら渋々、言う事を聞いて。私が欲しいって言わなくても私の耳元でうんざりするほど、甘ったるい言葉を囁いて」
酒も無いのに酔わされてしまう。そんな感覚を覚える程に甘い誘惑がランディの心を擽る。不意にブランの言葉が脳裏に過ってしまう。このままでは、まずいと自分でも分かっているのだが、拒絶出来ない。時期が悪かった。今日までの尽力で神経を擦り減らし、ランディを弱らせていたのだ。思わず、誰かに寄り掛かりたくなってしまう程に。
「そんないっぱい出来るかな? 多分、俺には――」
「なら。あなたが好きな事からやって。うんざりさせる事、好きでしょ?」
横を向いて己の耳元を指差すシトロン。自然と首元へランディは吸い寄せられ、顔を埋め柔らかな髪と肌に触れた。何時もの柑橘系の匂いとは違い、胡椒薄荷の清々しい匂いがランディを襲う。擽ったそうな声を上げつつもシトロンは拒む事無く、ランディの腰に両腕をやんわりと回して受け止める。
「……大好物。でも時と場合による」
「今がその時」
「絶対に違うと思う」
こんな風に人へ甘えるのも悪くないと思えるほど、心地が良かった。全ての憂いを忘れ、目の前の幸福に全力で向き合う事とは、どれだけ素晴らしいか。このまま溺れてしまいそうな程に心が軋み、不安で震えていた。それら全てが溶けて去って行く。
「出来る、出来ないじゃない。やって」
「うーん」
「それから私に色んなあなたを教えて。綺麗なんかじゃなくても良い。楽しくなくても聞くに堪えない悲しいお話でも……何でも聞くから」
見返りを求めない慈愛に満ちた想いが深く突き刺さって根を張って行く。ひた隠しにしていた本心が首を擡げる。同時にシトロンの求めているものも分かった。
「聞けば、聞くほどにあれだね……」
「そう……私は、あなたにあなたの全てを私へ差し出せと言っているの」
「なんと横暴な……」
「代わりに見合うだけのものを私も差し出すわ。私も私の全てをあなたにあげる」
「逆にそれは、君にとって得にならないよ。俺と君とじゃあ、釣り合わない」
「なら、私が支払う分と見合った存在になって」
その恩恵に見合うだけのものが自分にあるのだろうか。いや、無い。ちっぽけな自分が持っているものなど、何もない。差し出せるものがあるとすれば、この身一つだけ。それすらも石ころ一つの価値も無い。
「今から顔を変えろって言われても……ね? 威厳も無いし、学も品性も。気の利いた洒落の一つも言えないし、愛嬌の一つだってありゃしない。」
「そんな詰まんない事、言わない。私だけの為に誂えられたあなたになって」
「それは……究極の――」
「今は、その言葉を言わないで。此処で言ったら嘘になっちゃう。何年掛かっても……何十年掛かっても良い。それが本当に言えるようになってから聞きたい」
「なるほど……」
そっと離れ、シトロンは人差し指でランディの唇を押さえる。其処から先は、ずっと後になってからの答え合わせだ。今、確信を持って言える言葉ではないとシトロンは、言う。以前、何処かで誰かが言っていた同じ見解を聞く事になろうとは、思っても無かった。
「一度、持ち帰らせてあげるから……必ず答えて」
次はない。断ち切るべき迷いだが、無碍には出来ない。ランディに新た課題が生まれる。それは、目の前に居る一人の子へ最良の結末を用意する事。
「約束よ?」
「ああ……分かった」
「なら……これは、契約前の手付金ね」
「っ!」
口元に怪しげな笑みを浮かべ、シトロンはそっとランディの頬に血色の良い唇を寄せる。これで二度目。あれほど、油断しないと心に決めていたのにも関わらず、この体たらく。ほとほと、自分の愚かさに呆れ返るランディ。
「君って子は――」
「困りたいんでしょ? なら、気が済むまで困らせたげる」
「責任なんて取らないぞ?」
「責任なんて勝手にやって来るからその言葉に意味はないの」
「頑張って抗う……」
「駄目ね。私が全部、先回りして選べる選択肢、塞いで一つにしちゃうもの。そしたらランディには、何も出来ない。ただ、流されるだけ」
人として自分の更に上を行く相手にどう抗えば良いかなど、分からない。そもそも以前からそれとなく示唆されており、事前に十分な時間はあった。その期限が過ぎようとしている。与えられた猶予は少なく、小手先の技も出し尽くした以上、これまで通りには行かない。
「君に出来るかな?」
「出来る、出来ないじゃない。やるの」
売り言葉に買い言葉でシトロンは、威勢よく啖呵を切る。その意気込みを前にランディは、穏やかに微笑む。自分も負けてはいられないと気合を入れ直す。
「そうか……」
それからシトロンは、後ろの扉を開いてランディを誘う。此処までの全てがシトロンの思惑通り。だとすれば、何とも末恐ろしい。だが、ランディも決めている事がある。最早、誰の筋書き通りにも動かない。この先に待つ舞台の演出や脚本は、自分が全て用意するものだ。誰にも譲ってやりはしない。
ランディが席へ戻り、愉快な宴会の続きが始まった。それからは何も起きる事無く、この日は穏やかに終わりを迎えた。
そして、時は流れ、来るべき日を迎える事となる。




