第伍章 全ては、たった一人。ただ、君の為に。 12P
「時々、動物みたいに感覚で生きてる時があるよね。君は」
「単純だから……仕方がないの」
「人を捕まえて野生児みたいに言うなよ」
「だってそうでしょ? 普通の人ならそんな所まで気を配らないもの」
「ぐぬぬぬ――」
数少ない貴重な自慢話も全てが台無しとなり、不貞腐れるランディ。天を仰ぎ、吊るされた照明に慰めを求めるが、何も帰って来ない。この時、気付かぬ内に掘っていた墓穴で己が更なる窮地に落とされるとは、思ってもいなかった。
「でも……感触と匂いは、ホンモノだったようね」
「……何のこと?」
「君は、本当にボロが出るなあ」
言質を取られ、フルールからじろりと睨まれてランディは思わず、固まる。机を指で叩き、無言の圧力でランディを追い詰めるフルールを見てアンジュは、腹を抱えて笑う。
「……真面目な話なのに態々、焦点を当てるのが其処かい?」
「どれも興味深いけど。一番、面白いのが其処だから仕方がない」
笑い過ぎて目尻の涙を拭いながらアンジュは、麦酒を一口。最早、何の話だったかも忘れてしまいそうな程、目まぐるしく状況が変わって行く。居心地が悪そうに姿勢を正してランディは、前髪を弄りながら状況の打開を模索する。
「……でも。もし、相手がかなりの手練れだったら完全な術に嵌められてやられたね」
「そう言う事。隅々まで完成度が高かったら愈々、無理だよ。そもそも相手に有利な場へ引き込まれると思う。例えば、屋内の閉鎖的な空間だったら違いなんて見分けがつかないし、つけいる隙も無い。だから彼方の狡猾な年寄りは、相手しないに限る」
「勉強になるよ。助言、ありがとう」
「どういたしまして」
結局、最後までアンジュの手を借りて強引な幕引きに持ち込むランディ。それから焦った顔をして不意に立ち上がった。首を傾げる二人に向けてランディは、高らかに宣言する。
「ごめん。ちょっと、お手洗い」
「ちょっとっつ! まだ、話は終わって――」
「漏れるっ!」
「いってらっしゃい」
引き留めようとするフルールにランディは、断固として首を横に振った。そろそろ限界を迎える事が分かっていたアンジュは、微笑みながら手を振って見送る。
「……手拭きは?」
「あっ、確か持って来てた筈……無い」
「もう……服で拭くの止めなさいって言ってるでしょ? はい」
「助かるっ!」
丁度、料理を持って来たシトロンと入れ替わる形で手拭いを受け取ると風の様に去って行くランディ。慌ただしいランディを見て事情を知らないシトロンは、何事かと首を傾げる。そんな素振りを見せられれば、少々やり過ぎてしまったとフルールも反省してしまう。
出来立ての料理をじっと見つめるフルール。アンジュは、空になった杯をシトロンに手渡して追加の注文を頼んだ。ランディは暫く、帰って来ない事を見越してアンジュは、食べ始めてしまおうと促す。料理は、たっぷりと香辛料のかかった茹でじゃがいもに揚げた魚の切り身、酢漬けの野菜の盛り合わせ。見慣れた料理の顔ぶれだが、酒のあてには、丁度良い。
小皿に取り分けて酒の追加が来るまで待つフルール。
「全く……子供か……」
「まあ、可愛げがあるんじゃない?」
「そんな事はない」
「そう言ってるけど、ああ言うのが好きだろう?」
「……そんな事はない」
そんな事を言いつつも料理から寸分も目を離さないフルールを見て何方も子供だろうと思うアンジュ。腹を空かせていたのか、酒が来てからは、フルールの手が止まらなかった。
見ていて気持ちの良い豪快な食事風景にアンジュも舌を巻く。
「でも、びっくりした。前の貴方とならあんな言い合いする事なかったもの」
「さっきの話を蒸し返すのかい? まあ……今の僕は、素の僕だから」
「偏屈で頭でっかち。前の貴方は、もう少し……恰好が良かった」
「それは……あの時の僕は、君に気に入られようと必死だったからさ。君と居るのが心地よかったからその時間を何時までも続けたくて頑張っていたのさ」
「そう……」
食事の合間、フルールは手を止めて唐突に先ほどの出来事について触れる。それは、フルールが今まで触れた事の無いアンジュの一面だった。思い出に残っている姿は、どれも行儀が良く、言ってしまえばあたり触りの無いものばかり。良い意味で驚いたのだ。
「下心が無いと言えば、嘘だ。君の瞳に写る人間を独り占めして僕だけにしたかった。そう言えば、子供っぽくって心にぐっと来るものがあるだろう?」
「今の打算臭い言葉で全てが台無し」
「はっはっはっ」
「で、今はどうなの?」
「何が?」
「……」
悪戯に試すような視線をフルールへ向けるアンジュ。そのコバルトブルーの目に一切の裏表はない。だが、それはそれでフルールにとって表現しにくい寂しさを感じさせる。
「ああ、僕が君をどう思うかって話ね。そうだなあ……今は、本当に真っ新だ。正面切って君と向き合う事が出来る。後ろめたい事も無く、気負いする事も無い。もしかすると、僕が求めていたのは、こう言う事かもしれない。有りの侭の君を受け止められるし、有りの侭を曝け出せる。一度、お互いに触れてはならない所まで行ったからね」
「まあ、分からない事も無い」
「これまでの僕らは、互いに互いの偶像を作ってそれが真実だと思い込んでいた。でもそれがランディのお陰で完膚なきまでにぶち壊された。僕らは、何も知らないのに知った気でいた。だからあのすれ違いは、相応の罰と言っても過言じゃない」
「……」
それは、痛みを伴う過去の否定だ。されど、それを乗り越えたからこその今がある。互いのより良き関係性を作る為の必然と言っても可笑しくはない。一見、直情的な想いが無くなったかの様に思えるかもしれないが、それは違う。より深い思いやりが生まれ変わったのだ。
「禊ぎは、出来た。だから今度は、もう一歩先へ踏み出せる。別にどんな形でも良い。例え、君と添い遂げる事が出来ずとも僕の心は、穏やかだ。だってまた、この町に来れば君とこうやって話が出来るんだから。どれだけ時が経って互いに姿形が変わろうともね」
「そう……」
もう少し出会い方が違えば、結末は変わっていたかもしれない。その後悔は、今も残っている。しかし、その後悔が無ければ、次に繋がる言葉は、紡げなかっただろう。
「でも……もし、叶うのなら僕に時間を与えて欲しい。君と共に歩めるよう頑張りたい。今の僕は……とてもじゃないけど、君となんて歩めない。自分で精一杯だから。だけど、何時か君の事も考えられる様になったら……君の隣に居たい」
予告なしの唐突なアンジュの告白にフルールは目を見開き、声を失う。一気に思考が乱れ、フルールの視界は、ぼやけて行く。何もない景色をぼんやりと見つめてしまう。
「……」
「まあ、今直ぐに答えなんて貰えないよね。分かってる」
「そうね」
「でも、これだけは覚えておいて。僕は、君の幸せを願って止まない」
「……ありがと」
答えは、出ない。いや。元より用意などしていなかった。それはアンジュも重々、承知している。単純にアンジュは、自分の想いを伝えたかっただけ。もう宛先の無い手紙を心に仕舞い込みたくなかった。例え、返事が無くとも自分の言葉で。自分の手で最後まで責任を持って届けたい。その一心に尽きる。
「それともう一つ―― 君の選んだ選択肢は多分、正解だ。彼ならきちんと君を幸せに出来るよ。彼は、人の痛みが分かる。だから必ず君を大切にしてくれる」
「あたしは……誰かからの施しなんて受けない。自分で自分を幸せにするの」
「そうか……なら、僕の言葉は失言だったね」
目の前の主を失った椅子を眺めながらフルールは、余計なお世話だと言う。確かに今は何もない。だが、目に見えない面影が存在する。その姿無き人は、フルールに勇気を与えてくれた。素直な自分を曝け出す勇気を。
「でも……心は、動かされた」
フルールは、一言ずつはっきりと想いをアンジュへ伝える。
「素直に誰かから面と向かって自分の幸せを願われた事なんて無かったから」
「まあ、気恥ずかしいからね。それにおいそれと言うもんじゃないし」
「確かに」
答えではない感情の吐露。それがフルールの精一杯。もっと賢ければ、己の気持ちをそれらしい修飾で飾れたのかもしれない。そんなものは、必要ないと聞こえない筈の声がフルールの背中をそっと押す。自分らしさを知っているフルールは、もっとこの場に相応しい答えを知っている。恐らく、それが正しい答えで間違いない。
「だから―― だからあたしも願うわ……あなたの旅路の先に待つのが幸福である事を」
「……ありがとう」
フルールの掲げた杯にアンジュも応対する。心の底から笑い合う二人。一時的に袂を分かつとしてもそれは、最後の別れではない。何があろうともまた、笑い合って話が出来ると確信が生まれた。次に会う時は、互いに更なる成長を遂げて。それがフルールの答えだ。
「見送る」
「嬉しいなあ」
「今度は、必ず……よ?」
「ああ、必ず。さよならの挨拶をしよう」
何処までも曖昧で。何処までも本音と嘘が入り交じった歪な世界。誰が何と言おうとも固い握手を交わす二人には、それで良かった。