第伍章 全ては、たった一人。ただ、君の為に。 9P
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あの夜からランディは、思いつく限り精一杯、二人との時間を作り続けた。仕事終わりに飲みへ誘ったり、休みの日には、遊びの約束を必ず取り付けて連れ出してみたり。仕事の合間、事ある毎にフルールとアンジュの下へ下らない世間話をする為、顔を出した。
過ぎ去った時は、残酷だ。記憶に記された知識は、新たなものに更新されており、会話を成立させない。共通の話題でさえ、ちぐはぐなくいちがいばかりで最初は、ぎこちなかった。
だが、そんなものなど、ランディには関係が無い。劣化した絵具を全て剥がし、新たな色をそのカンバスへ思うが儘に塗りたくって形あるものにすれば良いのだから。古ぼけたカンバスには、新たな思い出が刻まれ、次第に距離は少しずつ近づいて行く。
出来る事があれば何でも。奇跡は、起こるものではなく、起こすものだと。手当たり次第に押釦があれば連打した。それは、今日も変わらない。
「さあさあ、二人ともっ! 早く早く」
「そんなに急がなくたって店は、逃げたりしないよ。ランディ」
そんな風に日々の生活を繰り返し、あっという間にアンジュが旅立つ前日まで過ぎ去って行った。ランディは、二人を誘って旅立ちの祈願を兼ねて飲みへ誘い、二人を連れ立って酒場へ向かっている。夕暮れ時、熱気の籠ったねっとりとした重い空気を一身に受け、額に汗を浮かべながら二人を急かし、先を行くランディ。今日は、きっちりと髪型を整え、シャツや細身のパンツも皺一つない。そんな溌溂としたランディの後を追うアンジュは、灰色のシャツとスラックスをきっちりと着用し、相も変わらず涼しげな笑みを浮かべ、後頭部で手を組んでのんびりと歩く。そのアンジュの隣でフルールは、ちょっとしたよそ行き用のくびれが目立つ薄群青色のドレスを身に纏い、疲れ切って肩を落とし、手で顔を仰ぎながら辛うじてつるっとした踵の高い革靴を履いた足を細々と動かしている。
「……はあああ。こんな事なら話に耳を貸すんじゃなかった」
「何だかんだで嬉しい癖に」
「うっさい。楽しんでるのは、アンジュだけ。一緒にしないで」
「良く分かってるじゃない? 僕は、とても愉快だよ」
「認める。そもそも、あたしが間違ってたわ。主に人選の面で……愚痴を言うなら共感してくれる相手じゃないと。後、野郎に共感は、無縁」
アンジュを恨めし気に睨み付けるフルール。最早、こんな風に憎まれ口を叩き合う風景もお馴染みになっていた。一見、険悪な雰囲気の様に見えるがそれは、違う。距離感が近くなっている。以前の相手の感情を揺さぶらない安定した距離で言葉を選ぶ形式的な会話と比べれば、気軽なものとなっている。
「心外だなあ……無い訳じゃない。目的論の違いだよ。利害の一致があって初めて共感が生まれるのと、共感する事で利害の一致が成立するのでは、訳が違う。所謂、男女間において思考の偏り違いだね。感情を優先するか、理屈っぽさを優先するか。男は、目的の為に会話をするのに対して女性は、会話をするのが目的になっている。これは、それぞれ生活において役割が違うから発生していると言われているね。まあ、個人差はあるけど」
アンジュは、目線を上にあげ、思案顔で理屈を並べ立てる。だが、そんな長ったらしい解説もフルールには、辟易する屁理屈にしか聞こえない。話題が話題なので仕方がない。実例がなければ、理解に苦しむものだ。
「少なくとも大人な紳士は、きちんと弁えて両立出来るものでなくて?」
「それは、取り繕って求められている役名を演じているだけさ。欲望に駆られ、しょうもない目的の為にね。内心では、解決の糸口が掴めなくてイライラしているか、相手の良き理解者だと勘違いして自分に酔ってる。ほら。聞けば、聞くほどにしょうもないだろう?」
「ああ言えば、こう言う……男らしくない」
「君が今求めているのは、大人なんだろう? 詰まらない奇術の種明かしを理屈っぽく説明して差し上げているのさ。これこそが大人だ」
苦し紛れの力技で打って出るフルールにアンジュは、ひらりとそれら全てを躱しきってみせる。如何にこの食い違いを自分らしく正すべきか。アンジュは、考える。言葉とは、非常に難解だ。簡単に発せられる一方、完璧な伝達が難しい。この難しさを例えるなら鍋に張った水を沸かすようなものだろう。木材や可燃物を使い、火を燃やすのは良いが、そこから生まれる膨大な力を熱量として抽出し、余すことなく鍋に張った水へ伝える術は無い。際限なく無駄な力を浪費しながら時間を掛けて水がやっと沸くのだ。それを踏まえれば、短期間で済む効果的な方法などない。時間を掛けてゆっくりと伝えて行く事が正攻法と言える。
「まあ、この食い違いが発生しているのも無理はない。僕は、僕なりに君との関係性を改善しようと小手先の技を駆使している一方で君の感情へ寄り添っている訳ではない。例えるならそうだね……いや、例える必要もないなあ。現に君は、僕のまどろっこしさへ無性に苛立っている最中で出来るのならそこの石壁に頭をぶつけて痛い目にあえと思っている」
「……驚いたわ。やっと貴方の言葉に納得が出来たんだもの。そんでもって解決の素晴らしさも理解出来た。これが利害の一致からの共感って奴ね。ふむふむ……其処まで酷い事は、考えて無かったけど。それが最適解ね。さあ、早く。あたしをすっきりさせて頂戴」
「君って奴は……本当に」
恐らく、着手の方向性には、間違いは無かった。寧ろ、問題だったのは、受け取り手の方だ。アンジュの頭をフルールは、鷲掴みにして石壁に押し付けようと奮闘する一方で先を歩いていた為、会話を聞いていなかったランディは、振り向いて不可解な行動に走る二人の奇怪な姿を目にして気が滅入った。目を離せば、直ぐこれだと肩を竦めて呆れ返る。
「……何をはしゃいでいるのさ? まだ、酒も飲んでいないうちから」
「喧しいっ! 今、男女間での行き違いってヤツにやっと終止符が打たれる最中なの」
「眺めている暇があるならっ! 止めてくれっ!」
「……馬鹿らしい。イチャイチャするならせめても酔ってからにして欲しいよね。夫婦喧嘩は、犬も食わないって正にこの事だよ。全く、何時まで経っても子供なんだから」
「……」
「……」
経緯を知らないランディは好き放題、のたまう。ひとかけらでも危険を察知する能力があれば、良かったのだが。生憎、ランディにそんなものは備わっていない。場の空気を読んで少し頭を働かせて二人に阿っていれば、結果は違っただろう。貧乏くじは、アンジュからランディへと継承された。しかも倍になって。
「止めてよ……二人とも怖い笑顔で近寄って来ないで。頼むからさあ」
「今、僕らの間で新たな答えが見つかった所だよ。ランディ、感謝する」
「初めて完璧な利害の一致が成立したわ。ありがとう、ランディ。そして、さようなら」
「ちょっと、からかっただけだろう? 始めたのは、二人が先。俺は、一種の樟脳として二人を宥めようとしただけさ。立派な大人二人がこんな事くらいで怒るなって―― いたっ!」
答えは、風の様に予期せぬ瞬間、舞い込むもの。アンジュは、フルールの拘束から逃れると、素早くランディの背後へ回り、羽交い絞めにする。気付いた時には、もう遅い。ランディがもがいている隙にフルールは、ゆったりと優雅に歩み寄り、腰の入った拳を腹部へめり込ませる。痛みで膝から崩れ落ちるランディの頭上で清々しく笑い、手を叩き合う二人。




