第伍章 全ては、たった一人。ただ、君の為に。 1P
*
何やら友が珍しく怪我を負ったらしい。その一報をランディが受けたのは、アンジュとフルールの間を取り持った翌日の午後。仕事終わりに自宅へ訪れてみれば、二階の自室で腕を包帯で吊りながら仏頂面で椅子に座るルーと怪我の手当てを終えたユンヌの姿があった。
「聞いたよ? 随分とやんちゃをしたみたいだね」
「……喧しい」
初めて訪れたにしては、見慣れた景色を彷彿とさせる机と椅子、本棚、ベッド以外殆ど物が排除された簡素な部屋。私室とあまり変わらぬ殺風景さ。扉枠に手を掛けながらランディは、仲睦まじい幼馴染の時間を邪魔する。白シャツとスラックス姿で気まずそうに窓の外を眺めるルーと救急箱を太ももに乗せた仕事着姿のユンヌ。
「ランディ君、こんばんは」
「こんばんは、ユンヌちゃん。手の掛かる幼馴染のお世話、お疲れさまだ」
「なんて来ない。カイユさん、一人だと大変だからね。オウルさんも仕事があるし。なんたって部下が一人、唐突に休んじゃったものだからてんてこまい」
てみあげの一つでも持って来ようとも考えたが、酒や煙草などご法度だろうと考えて止めた。穏やかな夕暮れ時。閑静な住宅地の一角だから窓から漏れて来る音も虫の音と風が木々や草花を揺らす音のみ。にこりと笑ってランディを迎え入れたユンヌへ軽く手をあげて答えながらゆっくりとルーの下へ歩み寄るランディ。
「確かに……でだ、相棒。どんな悪戯をしたらそんな結果に?」
「……」
「私やオウルさん、カイユさんが聞いてもだんまり」
「そうか……何処までも手の掛かる奴だ。ちょっとは、反省しろ」
懐から煙草を取り出し、ランディは一服する。ユンヌは、立ち上がりルーの机の上に置いてあった灰皿を取ってランディへ手渡す。少なくともユンヌの前では、白状しない。大凡、何が起きたかなど、分かっている。だが、本人へ直接、問い質さない事には、始まらない。
「……ランディ君、ちょっと良いかな? お手伝いして欲しい事があるの」
「畏まった」
何かを察したユンヌは、徐にランディを呼びつけ、一度部屋を出た。ランディも煙草の火を灰皿で揉み消して後に続く。特に用事などない事は、分かっている。ユンヌも知りたいのだろう。だが、聞かれた所で答えられる事など、限られている。出来る事と言えば、受け止めるだけ。踊り場に出た所で待っていたユンヌへ話しかける。
「……で、怪我の様子は、どうだい?」
「痛いだろうけど、命に別状はないって。ノアさんが。でも……」
「喧嘩にしては、派手だよね」
「そうなの。それに酔った勢いの喧嘩だって言い張るんだけど……肝心なのがその相手」
「町の人は、誰も怪我をしてないね。名乗り出る人も……まあ、それは居なくて当然か」
「きちんと覚えていない。知らない人だったって一点張り」
「十中八九、信じられないなあ……」
隠そうにもあからさまだ。普段の素行を念頭に置いてみれば、絶対にありえない。元々、そんな無茶をする柄ではない。何か裏があると自分から言っているようなもの。
「うん。悪酔いしたってダル絡みをするくらいで人様に手を出す事なんてこれまで一度もなかったの。まあ、職業柄……そこらへんは、きちんと弁えているんだと思う」
「なら、猶の事。怪しいね」
どれだけ周りが急き立てても答える事はない。また、どれだけ穏やかに問いかけても無駄だろう。北風と太陽よりも難解で鍵を握っている人物がその扉を開ける必要があった。その鍵を握るのは、この場でただ一人しかいない。
「……ランディ君、お願い」
「確かに承った。話せるのは、俺くらいだろうね」
「助かる。頼みの綱は、ランディ君だけ」
大きく頭を下げるユンヌ。内心は、不安でいっぱいなのだろう。余計な事へ首を突っ込んで後戻り出来ない状況に陥っているのではないか。それとも面倒事に巻き込まれたのか。何にせよ、不穏の種は、尽きない。ランディは、その姿を見て心苦しくなる。
「寧ろ、迷惑をかけたのは多分、俺の方。今回は、俺が関係している気がするんだ」
「もしかして……あの人?」
「恐らくは……馬鹿だよ。あれだけ警告したのに」
「多分、ランディ君の事を考えたら居ても立っても居られないんだと思うの。許してあげて」
ルーの考えた事など、手に取る様に分かる。だが、其処まで追い詰めてなどいない。現状に至った原因が分かってもきっかけがランディには、分からない。まだ、取り返しのつく間に解決せねばならないだろう。目の前の事ばかりに気を配っていた結果、そのツケが回った。
「いや、こちらこそ……申し訳ない。大切な人を巻き込んでしまって」
「……そんなんじゃない」
「いや、茶化しているんじゃないんだ。本当に申し訳なさでいっぱいなんだよ」
「……」
「もっと、早くに俺が解決をしていれば……こんな事には、ならなかった。ルーも重い腰を上げなかっただろう。本当なら君からきつく責められて当然だ。ごめんなさい」
「やめてよ……」
せめてもの償いは、この場で頭を下げるのみ。もっと、この件について影響力を真剣に考えるべきだったのだ。当人同士だけではない。場合によっては、多くの人に関わる。それを改めて思い知らされる。浅はかだったのは、己。
「不幸中の幸いは、大事に至らなかった事だ。アンジュさんも手加減したんだと思う」
「あの人は……そんなに危険なの?」
揺れ動く瞳を前に迷うランディ。今のユンヌは、様々な感情が揺れ動いており、その中には、怒りの感情も含まれている。下手に刺激してしまえば、二の舞だ。此処から先は、誰も通す訳には行かない。折角、見えて来た展望の小さな火が消えてしまう。
「いや、そうじゃないんだ。そっとしておいてあげれば、誰も傷つける事なんてない。今のところは……ね。でもこれから先は、話が違う。努々、仕返しなんて考えないで」
「本当は……すっごく、すっごく怒ってる。でも、誰を恨めば―― この憤りを何処に向ければ良いか分からないっ! 止めるなら分かるってランディ君は、言うの?」
「勿論、知ってるさ……その怒り。憤りは、余すことなく俺へ。諸悪の根源は、俺にある。君の感情を引き受けるべきは、おれっ――」
全てを言い切る前にユンヌの右手がすぐさま、ランディの頬を叩いた。叩かれたランディは、ゆっくりと顔を正面に戻し、微笑む。叩いた右手をそっと左手で包みながらユンヌは、ランディを睨む。己の思惑通りに事が進んだ。これ以上、誰も傷つかない。本来なら誰も悪くない。諸悪は、情けない無力な自分だ。全てを引き受けるのは、自分しか存在しない。
「―― しかいない。正解だ。これなら誰も傷つかない」
「うそ。今、貴方が傷ついてるの。多分、これを知ったら絶対、フルールが許さない」
「なら、知らせなければ問題ない」
涙目のユンヌを前にしてもランディは、己を貫く。清濁併せのみ、突き進むことしか知らない自分には、これしか分からない。傷つくのは、もう慣れた。だが、傷ついた人を見るのは、何時まで経っても慣れない。恐らく、どれだけ時が経とうと。例え、自分が成長しようとも慣れる事は、あり得ない。逆にそんな人間には、なりたくなかった。少しでも肩代わりをしてその傷が癒えるように願う事しか今の自分には出来ない。
「何時までそんなしょうもない事、続けるの? どうして貴方は、そうなの?」
「俺が俺である限り」
「最低よ、それ」
小走りで立ち去るユンヌの背を見届けるランディ。見下げられようと見捨てられようと。
自分の望む世界が在りさすればそれで良い。




