第肆章 甘い幻想の果て 10P
「ほら……こうなる」
気が付けば刺客の足は、地面から離れていた。アンジュが小刀を持った相手の腕を掴み、しっかりと押さえつけた所で足払いを仕掛けたのだ。勢いよく尻もちをつき、痛みで小さなうめき声を上げる。衝撃で舌を噛まなかっただけマシだ。
「どうした? 立ち上がらないと」
「くっ!」
「もう、飽きて来た……そろそろ、僕もやり返して良いかな?」
立ち上がる姿を見届けながらアンジュは、大きく伸びを一つ。草と土を踏みしめ、右足を前に足を肩幅くらいまで広げてから程良く脱力し、軽く握った拳を構えるアンジュ。ふらふらと歩み寄り、刺しに来た刺客へ左足を前へ一歩。左腕で小刀を持った手を弾き、ガラ空きの腹部へ右の拳を狙った箇所へ正確に叩き込む。
「がっ! げほっ、げほっ!」
「たった一撃、鳩尾から上の臓器めがけて軽く拳を入れただけだ。頑張れば狙いを外せるくらいには遅くしたし、力の加減もした。そんなに咳き込むなよ」
「ふっ、はあっ! はあっ!」
「そんな背中を丸めてたら避けられないぞ」
空いた手で腹部を抑える刺客に対して構えを直したアンジュは暇を与えず、更に頬へ左の拳を突き立てる。思わず、小刀を手放した刺客。地面へ倒れ込む相手へアンジュは、拾った小刀を首元へ突き付ける。勝敗は、ついた。頼みの綱である武器も奪われ、成す術もない。
「ほら……これで君は、一回死んだよ?」
小刀を刺客の横へ投げて寄越し、アンジュは石垣へ歩いて行き、酒瓶を手に取って喉を喉潤す。小刀を必死に握りしめ、よろけながら立ち上がるのを目の隅に捉えるアンジュには最早、何の感情も沸いて来ない。立ち上がれなくなるまで完膚なきまでに叩きのめさねば、終わらない。一気に片付けるべく、今度はアンジュが先手を取る。
「まだ諦めないか……何度やっても一緒さ。寧ろ、これ以上に酷くなる」
そう、相手へ耳元で囁いた後。慈悲もなく、幾度と殴打の鈍い音が辺りに響き渡る。一撃、一撃、食らう度に大きく体を揺らがせる刺客。倒れ込もうとしてもそれを許すまいと胸倉を掴んで引き寄せては、無表情で殴り続けるアンジュ。時折、低い呻き声が間に挟まる中。この戦いも遂に決着を迎えた。
「こんな所かな……少々、やり過ぎたな」
「――」
「これも勉強だと思って。分かっただろう? 僕が言った言葉の意味がさ」
完全に戦意は、削いだ。地べたで丸くなり、身を捩らせる刺客へアンジュは、問うも返事は、却って来ない。傷一つ負うことなく、一方的な蹂躙だった。結果が分かり切っていたアンジュからしてみれば、気分が悪い。誰も好んで相手を傷つけようとなど、思わない。
「全く持って本気は、出してない。寧ろ、遊んでただけ」
「がっ!」
尚も諦めず、震える腕を地面に突き、立ち上がろうとする刺客の背を容赦なく、足蹴にするアンジュ。最後に頭巾でも取って顔を拝んでやろうかとも考えたが、それも気が進まない。
「方や今の君は、ボロボロだ」
念には念を入れ、悪あがきをされぬ様にわき腹へ蹴りを一つ入れ、呼吸を乱した後、アンジュは刺客の横でしゃがみ込む。服の上からでは、きちんと判断出来ないが、致命傷となる怪我は、負わせていない。打撲や倒れ込んだ時の擦り傷。もしかすると、倒れ込んだ時に何処か骨に罅が入っているかもしれない。だが、内臓や頭部など、深刻な障害が出る箇所には、配慮した。何故、此処まで手心を加える必要があったかと聞かれてもアンジュには、特に理由が無い。強いて言うならば、ランディの友人である事を考えた結果だ。
「酷い裂傷や重い骨折は、無いよ。殆ど、手や足を中心に打撲で済んでるけどもしかすると何度か体を地面に打ち付けているからヒビが入ってるかな? 腹部は、膝が一回入っただけだから内臓の損傷も心配要らないね。勿論。念の為に明日は、診療所で見て貰うと良い」
アンジュは、投げ捨てられていた剣を拾い上げて地面へ深く突き刺す。
「転んだとか……中途半端な嘘は、止めた方が良い。お医者様なら傷跡で直ぐ分かる。酔った勢いで喧嘩して負けたとか、適当な理由を言えば話は、大きくならないよ」
呻きながら弱弱しく手を伸ばす刺客。損傷と痛みで視界もぼやけているのだろう。
「悪く思わないでくれ。君が途中で諦めれば、こんな事にはならなかったんだ」
「まだ―― まだだっ!」
「散々、やっておいてこう言うのもあれだけどさ……僕も弱い者虐めは、好きじゃないんだ。だって恰好が悪いんだもの。ここ等辺で好い加減、手打ちにしておくれよ」
「う……るっさいっ!」
息も絶え絶え。足も生まれたての小鹿の様に震え、立つこともままならない。そんな状態で何が出来ようか。完全にアンジュは、油断していた。その小さな油断が命取りになるとは、誰が予想できただろうか。
「まだ、立つか。君の尋常じゃない覚悟と頑張りは、認めるけどさっ――」
「―― くっ!」
酒瓶を回収し、捨て台詞を吐いて家路へ着こうとしたその瞬間。刺客は、残った全てのふり絞り、立ち上がるとアンジュの下へ駆け寄り、足音に気付いて振り向いたアンジュへ寄りかかる様にしてぶつかる。
「ふっ……窮鼠猫を噛むとは、よく言ったもんだ。油断大敵……だね」
じわじわと腹部から広がって行く違和感に気付き、アンジュは微笑む。少し時間が経ってからゆっくりと離れる二人。刺客の手と持っていた小刀には、しっかりと赤黒い液体が付着している。震える手で握る小刀をじっと見つめ、自分のしでかした事へ恐れ、這う這うの体で逃げて行く刺客。
「まあ。頑張りは認める。でもさ……犯行の証拠、現場に置いてくのはどうなのさ?」
地面に突き刺さった剣を見つめながらアンジュは、呟く。
「全く……君の友は、詰めが甘い。しっかり相手が死んだ事、最後まで確認しないと」
刺客の後姿を見送りつつ、刺された腹部にそっと右手を添えるアンジュ。服に少しずつ滲む血。痛みを感じないのか、顔色も変える事無く、平然としていた。
「ほらね……君が何と言おうと。もう僕は、人の理から外れている」
シャツの釦を外し、傷跡を確認してみれば、既に傷は塞がっていた。最初から傷などなかったと錯覚してしまいそうなほど、綺麗な腹部を眺めながら寂しげに笑うアンジュ。異変は、それだけでは済まされない。地面に突き刺さった剣を握ろうとする右手をまだ自由が利く左手で苦悶の表情を浮かべながら必死に抑え込むアンジュ。その震える右手を離してしまえば、もう止まらない。その先に待つのは、無益な殺戮のみ。
「やっぱり、無理だよ……もう、僕の意思で……どうこう出来る話じゃない」
肩で息をしながら暫く堪え、やっとその衝動は、収まる。血の気の失せた真っ白な右手を眺めながらアンジュは、呟く。後戻りは、出来ない。己に待つ末路は、一つだと。その最後が来るまで必死に醜く足掻いて生きるだけ。
「答えは……既に出ているんだ」
そっと見上げる夜空は、何も答えてくれない。されど、アンジュにとって空高く輝き続ける月だけは、何も語らずとも己の道を指し示す最後に残った道標として其処にあった。
「どうか……どうかお願い。僕が取り返しのつかない間違いを犯す前に正すのが君であって欲しい。僕に……僕に人として正しい道を指し示しておくれ。王国の意思よ」
己を見守り、照らす月へ微笑みながら一縷の望みを託す。たった一つ望みを。
「……人としての最後を僕に下さい」
コバルトブルーの瞳から静かに流れ落ちる一筋の涙。
それは、アンジュの本心を象徴する涙であった。




