第肆章 甘い幻想の果て 8P
与えられたものをそのまま享受するのではなく、与えられた側は、それを更に昇華せねばならない。一連の流れが出来てこそ、人は人として成り立つ。少なくともランディの周りに存在する年長者たちは、ランディをそうやって導いて来た。考える事をやめてはならない。恐れてはならない。間違えたなら誰かが教えてくれる。
「あたしは……」
「君の言う事は、ごもっともだ。ぐうの音も出ない。頭を壁に叩きつけられた様にこの身体の芯に響いたよ。だけどさ、どうにもならない事って世の中には沢山あるんだ。もし、僕がそれに甘んじてしまえば……」
「貴方如きがどれだけ大きな問題になるって言うんだい? それほど貴方は、強大で邪悪な何かなのかな? 貴方にそんな意思があるのかい? 誰かの命を奪い、欲望のままに非道な行いをする覚悟が。それが無いなら何も問題ないよ」
ランディは、アンジュへ覚悟を問う。非道な行いを自分の意思で行えるかどうか。滅びなど、何をしても何れは、訪れる。待って居るだけならば、誰でも出来る。ならば、最後の最後まで足掻きに足掻いて誰にも出来ない事を成し遂げ、救いとすれば良い。
「全ては、貴方の意思が大切なんだ。それを強く持ち続けるなら絶対に踏み止まれる」
それが出来ないならば、自分が救いとなろう。これまでもそうして来た。これからも変わる事はない。ランディは、悲しげな表情を浮かべるアンジュへ微笑む。
「もし……駄目だったら俺がきっちり押し留める。それでもしも貴方が崖から落ちてしまうならきちんと引っ張り上げてみせるさ」
目の前の青年、一人すら救えないのならば誰の手助けも出来ない。自分すらも例外ではない。例え、間違っていると指摘されても自分で決めたたった一つの存在意義が許さない。より良きものを求めるのも人の性だ。その性にも列記とした人の醜さがある。己なりの醜さを突き詰めて見えて来るものがある筈だ。
「今一度、見直してみてよ。君たちの心を。それから教えてよ。したい事を」
全てを漂白し、新たに真っ白な紙を作り出そうとするランディ。その白紙に何が刻まれるのかを期待する。やっと追いついた。此処からは、自分が二人の先を歩み、露払いをするだけ。誰のものにだってしてやらない独り善がりだ。何者にも邪魔はさせない。
全てをものしようと欲望にまみれたランディは、動き出す。
*
日は、沈んだ。無責任に新たな歪みを押し付けて青年は、去って行った。それからどれほど時間が経過したか。町を囲む石垣の上で酒を隣に置き、今もアンジュは、一人で静かに考え続けている。己の役名が様変わりした。自分が思い描いたものとは、程遠い何かを突き付けられ、戸惑うアンジュ。置かれた状況にではなく、心に従えと言われれば無理もない。
『したい事……か』
もし、それが叶ったのなら。そんな淡い幻想がアンジュをかどかわす。幾ら煙草と酒で誤魔化しても消えない。諦めていた全てが心の中で叫ぶ。どんな形でも良い。また、彼女と関りがもてるかもしれない。ちっぽけな何かでも良い。その記憶に忘れたい過去ではなく、思い出したい過去として存在出来る事を許された。
「諦めてから考えてもみなかったなあ……」
どんな関係ならば、自然に笑い合えるだろうか。気軽に話しかけられる様になるだろうか。彼女の認識する風景の一部となれるだろうか。今更、隣に並びたって添い遂げるなどと言う身の丈に合わない高望みなどはしない。あの慈愛を自分だけに向けて貰いたいとも思っていない。煙草に火をつけ、紫煙を空に昇らせながらアンジュは、酒の瓶を手に取り、傾ける。
「ほんとに狡いよ。君は――」
消えかけていた心の火が今一度、活力を見出す。あの無垢な微笑みが己に許しを与えてくれた。なるほど、誰もが彼もがあおの青年を気に掛けたくなる理由も理解出来る。彼女が視線一つ外さない理由も。酒と思考で火照った頭を不意に駆け抜けた夜風が冷やす。同時にその風は、何時までも甘い幻想に浸るアンジュを現実へ引き戻してくれた。
「そろそろ、姿を見せたらどうだい? 居るのは、知っているよ」
「……」
世界は、やっと灯った小さな希望さえも呆気なく奪い去ってしまう。石垣の裏手で隠れてアンジュの様子を伺っている者が居た。石垣を飛び越えて現れたその人物は、足元まで届く黒の外套を羽織っており、頭も頭巾を深く被り、布で口元まで隠す念の入れようだ。
「どういったご用向きかな? そんな怪しげな格好をして」
夜半と言え、暑さで寝苦しさを覚える季節にそんな厚着をして随分とご苦労な事だ。されど、その全てが浅い。恰好だけによらず、人気のない場所で背後を取って闇討ちの機会を伺う行動に至るまで全てが絵に描いたように典型的な辻斬りそのもの。本の読み過ぎだ。
「もしかしたら気付かない内に何か恨みを買ってしまったのかな? それならこの場で謝罪する。出来れば、何か返答が欲しいのだけど……」
「……」
なるべく、戦闘は避けたい。戦の匂いに誘われて時間の経過と共に己の内で蠢く力。以前よりも距離が曖昧となって己の精神と混ざり合い、欲望が押し止められない。いつ正気を失っても可笑しくはない。折角、与えられた期待を無碍にしない為にアンジュは、必死に抗う。
「そうか……恨み何て簡単なもんじゃないか。なら、この町が正常な流れに戻るよう僕を排除しに来た。当たりだね。確かに僕は、この町にとって異質な存在だ……」
「分かって居るなら聞くな」
若い男の声。その声色から少しの震えをアンジュは、感じ取る。その他にも見るだけで相手の情報が頭へ流れ込んでくる。些か呼吸も乱れており、緊張で体も固まっている。そもそも体つきも細く、荒事にも不慣れなのだろう。そんな者が何故、自分に向かってくるのか。アンジュは、理由が知りたかった。それが分かれば、回避の糸口が掴めるかもしれない。
「良かった。やっと、お喋りが出来て。君は、この町の子だね」
「――」
「これから消える奴に答える義理はないと……君は、本の読み過ぎだ」
肯定も否定も無い。此処までの過程で一つ分かった事がある。それは、目の前の人物が自分の意思で決起した結果だという事。少なくとも大きな組織などの介入ではない。アンジュも裏表がない訳ではなく、これまで人さまから多少の恨みややっかみを買う事もあった。己を確実に仕留めたいのならば、無暗にこんな素人を送り出す事はないだろう。実力の片鱗を知っている相手であれば、それなりに精通した手練れを寄越して来る筈だ。
「でもさ、君はこんな汚れ役を買って出る配役ではない筈だ。君の本分は多分、別なもの。もっと穏やかで人に寄り添う何かだ。こんな指摘……したくないけど。君には、才能がない」
若さ故の蛮行か。それとももっと別の何かが突き動かすのか。アンジュは、憐れむ。居ても立っても居られず、行動したけれど自分自身が成功する過程を見出せていない。この瞬間も次に何をすれば良いか迷ってしまっている。だから安穏と会話が成立してしまっているのだ。手練れならば、アンジュが声を掛ける前に手を出しているのだから。
「その事を誰よりも分かっているのは、君だと思う。無駄だから止めた方が良い。これは、僕からの警告だ。今ならまだ、戻れる。優しい世界へお帰り」
迷いが生じた時点で勝敗は、決まっている。アンジュは、酒瓶を傾け、雑に手を振って追い払う。興が削がれた。少しでも己の興味を引くものがあれば違っただろう。目の前の相手には、闘争心がない。矢張り、己を掻き立てるものは、一つしかない。手合わせとは言え、あの心を燃やす戦いが脳裏を過る。互いに勝算があり、一瞬の隙も許されず、実力以上の性能を発揮してでも競り勝ちたいと焦がれる戦いが恋しくて仕方がない。




