第肆章 甘い幻想の果て 5P
「そんなに大きな声を出さないでおくれ。そうだよ、僕さ。それにしても驚き過ぎだ。どれだけ気を抜いていたんだい? ほんと、おっとりしてるなあ」
「考え事……してたんだ。ぼんやりしてた訳じゃない」
「さては、下らない事で悩んでいるな?」
「下らない事なんかじゃない。とっても重要な案件だ」
口籠るばかりのランディに首を傾げるアンジュ。
「なら、試しに話してごらんよ。僕が解決策を見出して上げない事も無い」
「多分、無理だよ……」
「どうして分かる?」
「それは……」
終始、浮かない表情で情緒も不安定なランディをアンジュは、宥めようと試みるも改善の兆しは表れない。思い当たる節があるとすれば一つ。それは、他でもない。
「もしかして僕の事で悩んでる?」
「いや、そう言う訳では……」
「君は、本当に嘘が下手だね。そんなんじゃ、浮気の一つも出来やしないぞ?」
「今の所、予定はない」
一つに纏めた白い髪をやんわりと手櫛で梳いた後、アンジュはランディへ手で合図をし、何処かへと誘う。アンジュの誘いに乗って辿り着いた場所は、『Figue』。何食わぬ顔でユンヌへ珈琲を二つ注文し、受け取るとアンジュは外の席へ向かった。ランディを椅子に座らせてからアンジュは、問う。
「なら、何さ? 君を苦しめている事って。君が浮かない顔をしていると皆が心配するぞ?」
この場で語れるならばどれだけ楽だっただろう。無力な自分を心底、恨む。胸のポケットから煙草を取り出し、アンジュはランディに勧める。何をしようとも気が晴れる事はない。
「フルールの見込んだ男だろ? なら胸を張れって」
紫煙を吐き出しながらアンジュは、話を続ける。
「そんな今にも泣きそうな顔するなって。君らしくない」
「違う。そうじゃない。フルールは、貴方の事が――」
「君の方が勘違いしているよ。あの子はもう、僕の事何て見てやしない」
「でも、だって……」
「違うんだ。僕が全ての原因だ。間違いない」
好い加減、頃合いなのだろう。アンジュは、自分の役割を全うしようと動き出す。目の前の青年に自分の役割を自覚させるのが己の課せられた使命。この際だからと包み隠さず、アンジュは己の事情を白日の下に晒す。
「大体の事情は、君も知って居ると想定して話すけど……本当ならあの時、僕はあの子を傷つけるべきではなかった。例え、どんな事情があったとしても……一人にしてはいけなかった。あの手を離してはいけなかったんだ」
「それが分かって居るならっ! なぜっ――」
「今になって分かったんだ。それではもう遅い」
寂しげに笑うアンジュへランディは、食って掛かるもその言葉は届かない。
「何で……何でそうなんだよ……二人して……自分の事なのにまるで他人事なのさっ!」
「結果が出てしまっている以上、どうしようもない。君が苦しむ事ではないよ」
まるで叱られた子供の様にランディは、前のめりになって椅子の座に両手を掛ける。方や、アンジュは店内から視線を感じ、さり気なく目線を動かすと二人の間に漂う不穏な空気を感じ取り、心配そうに此方を見つめる制服姿のユンヌの姿があった。アンジュは、ユンヌへ手を振り、笑い掛けた後、ランディの肩へ己の拳を軽くぶつける。手の掛かる弟分だ。自分の影響力をまるで理解していない。
「本当に馬鹿みたいにお人好しだ。そんな君の所為で僕まで目が離せない。もし年の近い兄弟が居たのならこんな感じなのかな? 何だかとっても愉快な気分だ」
「誰の所為でこんな事になってると……もっと、頑張ってくれよっ! 年上なんだろっ!」
「世の中、どうにもならない事って沢山あるんだ」
「ふざけるなっ!」
「ふざけてなんかいない。僕もあの子も別れや出会いを経て今に至る。取り立てて言うならフルールは、この二年で様々な経験を得た。でもそれだけじゃない。誰かから強い影響を受けたんじゃないかな? 前よりも自分の意思決定をはっきりと伝えられる様になっている」
理路騒然とこの結末に至った経緯を語るアンジュ。なるべくしてなった。それぞれの道を歩み始めた以上、後戻りは出来ない。そして、互いに譲り合う心算もない。
「きちんと前を向いて主人公として自分の人生を歩もうとしているんだ。多分、その道を行くなら僕は……邪魔者にしかならない。だからこの決別は、必然なんだ」
「違う。そうじゃないっ! あの子は、あの子は……本当は」
「ほら、そうだ。僕は所詮、表面的な姿しか見れていない。そうであってそうじゃない。人のそれは、表裏一体だ。でも君は僕と、違う。もっとフルールの裏表をきちんと見てあげているね。僕に出来ない事をやってのけてみせる」
何よりもその道へ誘った張本人がそれに気づくべきだ。最初からきちんと説明をしていればこんな顔をさせずに済んだのかもしれない。もっともアンジュとて人を説得出来るだけの話術を心得ている訳でもない。これは、アンジュの課題ではなく、ランディの課題なのだから自分で気付くのが正解なのだ。だが、手を差し伸べてやりたくなる。
「良くも悪くも……君は、あの子を変えたんだ。先ずは、それを自覚しろ」
「っ!」
「勿論、その後ろ姿を見て僕が何も思わないとかそんな訳がない。後悔とか、身勝手な独占欲とか、醜い負の感情が心の片隅に今も渦巻いている」
「ならっ!」
何もそれを傍から見て思う事が無いとは言えない。己の醜ささえも曝け出してしまえるほど、アンジュはランディに対して展望を見出していた。ランディがもうこれ以上、間違えぬよう、自分と言う反面教師を使い、諭すアンジュ。
「でも、如何にも出来ないんだ。何歩も先を歩くあの子の到達したその場所は、あまりにも明るい。僕は……その明るい場所では、生きて行けない」
「そんな事、言うなよ……それは俺だって」
「いや、君は違う。確かに僕と同じ様な暗い道のりを辿って来たのかもしれない。でもね。その道中には、目指す場所へ導く小さな明かりが必ず灯って居た筈だ。君はそれを絶対に見逃さない。だから迷わず、辿り着いた。君の行きたい場所へ」
話をしている間に乾いた喉を珈琲で潤す。一見、同じように見えてもアンジュとランディは違う。どれだけの差があるかを分からせねばならない。その材料も既にアンジュは、揃えている。さして難しくもない。町を練り歩いて町民から話を聞けば簡単に集まった。
「この町で起こった事……特に君の活躍を耳にした。本当に凄いよ、君は。町の皆が君のして来た事をさも自分がやった事の様に自慢する。誰もが君の事をよく知って居る。聞く人によって少し違うけど。大体は、一緒。おっちょこちょいな所もあるけど、義に篤く、情に深いってさ。そして誰よりも諦めが悪いとも言っていたよ」
「そんな事、してない」
「嘘を付くのは良くないぞ。気を抜けば見逃す小さな明かりだけの道無き、険しく痩せた大地であっても最後には目指す場所へ辿り着く確かな道として君は、その軌跡を作り上げて来た。そしてその道は、誰もが通る事の出来る道だ。だから君は、皆から認められている。時に自分自身でも振り返って省みる事が出来る」
だから少なくとも彼女の隣にあるべきは、自分ではない。少なくともランディ自身か、それ以上の逸材をランディが見つけ出さねばならない。そうでありたいと思われたのだから。
その想いを簡単に踏み躙ってはならない。
「僕は、違う。沢山、見逃して来たから。僕は、後ろを振り返る事が出来ない。振り向いたら最後、足を滑らせ、何処までも深い奈落に落ちて行く。僕の後ろには、断崖絶壁しかないんだ。だから誰も僕とは、同じ道を歩く事は出来ない。誰とも同じ道を歩む事が出来ない」




