第肆章 甘い幻想の果て 3P
難しく考え、思考の迷路に入り込んでしまったランディへ教えを説くブラン。そうなってしまった訳も知っているし、共感も出来る。だが、それは新たな一歩を踏み出す事へ恐れているだけだ。煮え切らない態度が全ての諸悪だとブランは、指摘しているに過ぎない。
「だから君は、ダメなんだ。形はどうであれ、誰かを通す事でより世界が豊かで素晴らしく思える。零を一にするんじゃない。百が二百、三百になるって事」
その答えへ至るには、足りないものがある。求めているものは、遠く離れ、手を伸ばしても届かないその地に。だからお為ごかしで本音を語ろうとしない。それを今、言葉にしても何の解決にもならないと分かっているからだ。
「好い加減、ありふれた詰まらない枠に嵌りたまえ。世界には、必ず君の有りの侭を受け止めてくれる誰かが存在する。探す事を諦めてはいけない」
「……」
「何か言いたげだね。君の本音は、何処にある?」
穏やかな表情でブランは、更に一歩踏み込む。仮面の下に隠されたその答えを。それを知る為ならば、この関係が拗れたとしても構わない。知らねば、更なる齟齬が生まれ、積み重なり、埋まらない溝が二人の間に広がってしまうから。
「ほんとは、君の後ろで見え隠れする誰かの下へ今直ぐにでも飛んで帰りたいのかな? 有りの侭を受け止めてくれるその人が待つ故郷へ」
「……」
「分かって居るなら言うなと? 君も隅に置けないね」
睨むランディを尻目にブランは、悠然と机の上に置かれた杯の水を口にする。
「違うのは、何となく知って居たさ。でも君があまりにも口を閉ざすから」
きっちりと固めた黒髪をそっと右手で撫でつけながら首を傾げたブラン。ランディは、口を閉ざしたまま、両の手をぐっと握りしめる。ぐうの音も出ない。ひた隠しにしてきた願望を白日の下に晒されば、致し方が無い。ブランは、責めているのではない。これまでの経過を踏まえた結果と第三者視点の見解を淡々と語るのみ。
「君は、やり過ぎたんだ。あまりにも他人を魅了し過ぎた。だから君がきちんと幕引きをしなければいけない。それがどんな結末を迎えたとしても。責任を取らなくちゃ」
「其処までの価値など、俺には――」
「無ければ、こんな事にはならない」
頑なに卑下して向き合おうともしないランディへブランは、頬に手を当てながら別の視点から擦り合わせをしようと試みる。全てを悲観して現実的に捉えるのではなく、時には幻想と言う甘い世界へ身を委ね、誘われるのも悪い事ではない。
「では、話の方向性を変えようか。事実、君が今この瞬間にも折れしまいそうになっているだろう? 一つ、何か終わらせる度にまた何かが増える。寄る辺もなく、全てを背負い、最前線で戦うのは疲れるよ。このままズルズルと続け行けば、その正しさが何れ、君を殺す。けれどね、世界はそんな事を許さない。その弛まぬ努力の上で守られている皆の中で少なくとも実情を知って居る人は、君の背中を自分に預けて欲しいと願って止まない」
その優しい世界に片足を入れてしまえば、その代償が待って居る。ランディには、その責任を負えるだけの覚悟が無い。ましてや、ブランの甘言は誰もが許容し兼ねる提案だ。
甘い幻想の果てに何が待ち受けているかなど、手に取る様に分かる。
「時には、誰かに預けても良いじゃないかな? 勿論、それが正しくない事は、僕も知って居るさ。だからと言って誰も君を断罪何て出来やしない。そして、君が背中を預けたその人物は、言うだろう。これまで君が通って来た軌跡の全てを。積み重ねた過程で死をも恐れず、戦い続け、一縷の救いも無ければ、二度と会える事も無かったと」
「でも、俺は……」
「いや、君はそれ程までに追い詰められて居る。国の趨勢を。場合によっては、多くの人々の生死に関わる……社会の根底を揺るがしかねない力を持って居るから。それを正しく行使しなければならないと言う目に見えない不断の掟を自分で作り、守り続けているが故に」
「そんな大層な事ではっ!」
物は言いようだ。決してランディは、その様な考えを持っていない。これまで目の前の事に精一杯で大きな視点から己の背負った定めを考えた事も無い。ただ、自分の手が届くかもしれないと繰り返して来た結果が今なのだ。逆に言えば、簡単に総じて語れるものでもない。その小さな出来事の一つ一つに心を揺さぶるものがあり、尊い何かが確かに存在した。
「ならば、問おう。君の剣は、何の為にある?」
「守る為に」
「何を?」
「この眼に映る全てを」
じわじわと光彩の端から蒼が侵食し始める。少しずつ奪われて行く穏やかな茶色の瞳。冷たい深蒼が見つめる先にあるのは、人々の小さな希望が寄せ集まって出来た業。
「ほらね。大いなる意思が君に詰まらない責任を押し付ける。その瞳が何よりの裏付けだ」
ブランは、否定する。その意思が全てを無に帰す諸悪の根源だ。
「吸い込まれそうな程、澄んでいて何処までも深い蒼の意思が君にそうさせている」
真蒼に染まる瞳をブランは指し示し、きっぱりと言い放つ。
「根拠が無くてもその瞳を見るだけで僕は、安寧に包まれてしまう。心が穏やかになって永遠の安寧を期待してしまう。でも果たしてそれは、本当に君の意思なのかい?」
「それは……」
違うとは言い切れなかった。その為の機構であると自分に言い聞かせ来たからだ。自分の取柄は、それだけでそれしか人と関りが歯車の一部として世界に溶け込めるものがなかった。寧ろ、その意思に縋っていたと言っても過言ではない。
「恐らく、それに支配され続けているなら君が求める理想には一生、手が届かない」
過程に囚われた結果。真の目的から更に遠のいてしまった。
「たった一人。ただのヒトとして生きると言う何よりも尊い理想には」
「……」
ブランは、正しい。もっと自分に正直であるべきだった。個としての意思をきちんと持ち、焦がれにその身を焼き尽くす必要が。何かを求める自然な姿が自分の求めている理想。
「僕が言うのも烏滸がましい話なんだけど、人ってそんなもんじゃないよ。心底、欲に塗れていて狡猾。奪い、奪われが当たり前。死んだら其処で御終いなのに無駄な事を積み上げ続ける。典型的なものであれば、お金とかがそうだろう。後は、名声かな?」
それ以外にも詰まらないものに人は、魅入られている。物欲、食欲、人として最低限度の生活に満足せず、飽くなき渇きと飢えに苛まれているのだ。その潜在的な欲望と探求があるからこそ、人は人であり続ける。それが罪であっても。
「その『力』を自分の為に使うのは、ダメだろうけど。君の人生は、如何様にでも自由に出来る筈だ。金輪際、力や責任の一切を捨て去り、全ての理不尽や変えようのない時流に呑み込まれてしまえば。堕落し、その上で君らしく生きさえすればね」
とても魅力的な提案だった。己が求めるものの全てがブランの言う理想に詰まっている。
「そうすれば、こんな問題も簡単に解決してしまう。多分、何方かは君に幻滅して自然と離れて行くだろう。もしかすると、何方も離れて行くかもしれない。まかり間違って何方かが有りの侭を受け入れてくれる可能性もある。これは、最悪の場合だけど、何方もそれを受け入れる可能性が浮上したら面白過ぎて僕は、お腹を抱えて笑ってしまう」
怒りが込み上げて来た。何処までも他人事の様に言うブランの操り人形が今の自分。それが悔しくて堪らない。




