第傪章 熒惑 11P
「―― 良い訳がないでしょ。ふざけんじゃないわ」
「フルール、ようこそ。シトロン。やっぱり間違いは、間違いだってさ」
「この甲斐性ナシ……へなちょこ」
「それは、俺の専売特許だよ」
「馬鹿言うのも大概にして頂戴」
何の脈略もなく、裏手から姿を現したフルール。急いで来たのか、軽く呼吸が乱れ、馴染みのシャツも着崩れ、額にも汗が浮かんでいる。空気を読まずに呆れ顔で二人の逢引きを中断させる気概もらしいと言えばらしい。少し距離を取ってランディが肩を竦めて見せると、シトロンは、あまりの不甲斐なさにしらけた顔をする。
「そもそも怪我人に何してくれてんのよ? あんた、馬鹿じゃないの?」
「だからその怪我を癒そうと。後は、労いも兼ねて」
「余計な体力使わせんじゃない」
ランディの上で平静を装い、惚けるシトロンに対してフルールは、機嫌を損ねる。急転直下。ランディにとって一気に居心地の悪い場所となる。落ち着く我が家で何故、怯えなければならないのか。素知らぬ顔でシトロンを解放し、シャツのポケットから煙草を取り出し、心の安定を取り戻そうと必死になる。そんなランディの心情もお構いなしにシトロンは、徹底抗戦。すさまじい剣幕のフルールへ一歩も引かない。
「それは……ランディ次第かな? 私、別に提案してないもの」
「それとなく選択肢を要所、要所できっちり与えてたでしょうに」
「どう捉えるかは、見解の相違があるんじゃない? あくまでも自然な流れだったもの」
「なら……本人へ直接、問い合わせするわ」
腰に手を当てて睨むフルールと妖艶な微笑みを絶やさないシトロン。また、これかとランディは、煙草の紫煙へ助けを求めるも答えは、何も思い浮かばない。何を言っても見苦しい言い訳だ。ならば、視点を変えて自分の十八番に頼るしかない。
「全くもって……またしても二人して返答に困る事を。何だい? 一見、いがみ合っている雰囲気を漂わせつつ、実のところは、裏で結託して俺を虐めているだけでは?」
「もう、通用しない」
「好い加減、擦り過ぎたね。もっと頑張ってよ?」
『君は、まだその段階に居るのかい?』と言葉にせずとも言外に滲ませる二人からあからさまに見下されるランディ。見下されるのは、嫌いじゃない。嫌いじゃないと自分に言い聞かせながら涙を浮かべながら敗北の二文字の前で膝をつくランディ。
「第一、フルールだって祭りの時に散々、振り回した癖して。自分だけずっこいじゃない?」
「それはそれ。これはこれ。あんたには、関係ない」
「現在進行形で疲れが……胃痛が。後、怪我が痛い」
「身から出た錆よ。我慢なさい}
「うへええ……」
蚊帳の外。いがみ合う二人を前に目を回すランディ。ただでさえ、疲労と怪我で参っているのにも関わらず、これ以上に負担が増えれば、此方が参ってしまう。加えて気になっているのは、フルールの訪問理由だ。何もこんな喧嘩をする為に来たのではないだろう。その真意が気になって仕方がない。不安げなランディを前にフルールもランディの心境を悟ったのか、歩み寄ってランディの前まで来ると、そっと頬に両手を添えてランディの顔を見つめる。その茶色の瞳に怒りはない。その瞳に映し出すのは心配や慈しみだけ。それからフルールは、ランディの手から煙草をやんわりと取り上げて火をもみ消す。
「はああ……ダメじゃない。何でこんなに怪我してるの?」
「いや、まあ……諸事情により」
「手当ては―― シトロンが殆ど、終わらせたみたいね。安心した。ありがと、シトロン」
「――」
これまでの態度が嘘の様に様変わりしたフルールへたじろぐランディ。何か裏があるのではないかと、勘ぐってしまうもそれはあり得ない。ランディは、フルールを知っている。自分に正直であるからこの行動も純粋な想いが籠っている事を。
「何したのかは、深く聞かないけどね。あんまり、あたしに心配掛けさせないで」
「ごめん」
「……したかった事をした。それだけでしょ? なら良いわ。あたしは、怒らない」
「……」
これでは、まるで叱られた子供だ。優しく微笑むフルールに対してランディは、頬を赤く染める。全てを見透かされている。それでもフルールは、ランディを責めない。寧ろ、その意を酌んでそれ以上は何も言わない。大人しくなったランディをフルールは、ゆっくりと胸元へ引き寄せ、抱きしめる。穏やかな香水の香りに包まれ、フルールの胸の鼓動に耳を傾けながらランディは、静かにその瞳を閉じる。走馬灯の様に目まぐるしく今日の出来事が脳裏に過る。その瞬間、一気に体が重くなり、麻痺していた心労が呼び起こされる。
「でも……こんな事しても……痛いだけだったでしょ?」
「何か言葉には、出来ないけど―― 掴んだ気がする」
「それは、気の所為ね。どれだけ親近感があってもあなたとアンジュは違うの。必ず、すれ違うわ。見てるものも求めているものも正反対。それは、あたしが保証する」
「そうかな?」
「そうよ」
見上げるフルールの顔には、一点の曇りもない。
「……ランディ、もう解決したの。あたしが全部、終わらせた。もう大丈夫。あなたが気に掛ける事何て何もないのよ。町はいつも通り。だから―― ねっ?」
精一杯の笑顔を。精一杯の虚勢を。精一杯の願いを。偽りの安寧でも構わない。己に対して正直である為に。矛盾は、承知の上。己が否定した道理であっても通してみせる。フルールは、この場で己の全て力を一点に集中させた。見上げる茶色の瞳は、戸惑いで揺れている。その瞳から全て憂いを取り払いたい為に。
「分かった……君がそう言うなら」
「んっ!」
ランディの言葉に納得し、フルールは大きく頷いた。今は、それで良い。後始末は、自分でつけると決めたのだから。物語の主人公は、自分である。今度は、自分が誰かを救済するのだとフルールは、己に言い聞かせる。例え、多くの代償を払ったとしても。
「さあ、無事な姿も確認出来たし。帰るわ。シトロン?」
「私は、まだ残って夕食の準備とか――っ! 何すんのよ?」
「ランディ。もう、大丈夫でしょ?」
「はいっ! 問題御座いません」
ランディを開放し、フルールは足掻くシトロンを引っ張って出口へと歩み出す。ランディには、一人で考える時間が必要だ。最後は、己と同じ答えへ辿り着いて貰いたい。だから今は、そっとしておきたい。伝えたい想いを堪え、フルールは前に進む。
「じゃあね……」
「勝手に帰らせようとするなあっ!」
椅子の上で新たな煙草を咥え、考え込むランディの姿をその目に焼き付けながらフルールは、『Pissenlit』を後にする。
*
これで話が終わりであれば、どれだけ良かっただろうか。まだ、納得の出来ていない者がいるのだ。灰色の瞳は、先ほどから隣で親の仇でも見るかのようにじっとフルールを睨み付けている。まだ、何も終わっていない。それどころか、もっと状況を悪化させたかもしれない。考えている事は大凡、見当がつく。
「……どうすのよ?」
「何が?」
「この落とし前」
「もう、終わった事ね」
「フザケてんの?」
「ふざけてない」
静かな怒気を孕んだシトロンの声がフルールを糾弾する。自分でも分かっているのだ。責められても致し方が無い。ましてや、シトロンの思惑も無碍にした。彼女もランディを遠ざけようとしたのだろう。己へ振り向かせる事によってフルールへの想いを断ち切らせる為に。だが、ランディの瞳にはまた、フルールの方へ向いてしまっている。
「全部、あんたの所為」
「そうね。全部、あたしの所為」
「ほんと。そうやって開き直るところ、屑だわ」
「そうね。自分でも分かってる」
「っ!」
今なら分かる。これまでの出来事で様々な事象に苛まれたランディの心境が。如何なる逆境であっても歯を食いしばって来たのだ。それに比べれば、些末な事。何せ、自分の事だ。ランディは、他者の出来事へ首を突っ込み、道理を繋げて来たのだから。
「―― 全然、終わってないっ! 何もかも全てが。ランディは、絶対に諦めない。あんな言葉で気が変わるとでも思ってるならあんたは、救えないほどの大馬鹿よっ!」
声から伝わる不安と憤り。シトロンも馬鹿ではない。どれだけ心血を注いでも敵わなかったから怒りをぶつけてきている。
「……」
夜の帳に包まれた町は、ぞっとするほど暗い。時折、家屋の出入り口に灯された外灯がなければ、道を見失ってしまうかもしれない。不安はあれどもフルールは空を見上げて安心する。広大な夜空には、天高くに輝く月が変わらぬ柔らかな光を与えてくれる。だから向かうべき方向を違える事はない。
「黙って―― ないで……何か言いなさいよっ! このままじゃ、ランディがっ!」
「―― 分かってる。だから……あたしが止めて見せる」
「どうやってっ!」
「この命に代えても……もし、最悪の事態が起きたのならあたしが間に入る」
「そんな事して止まるとでも? 絶対に止まらないっ! 止められないっ! 一回でも止められた事があるのなら私も納得するっ。でも私だってあんただって――」
それが出来るのならば悩みはしない。正しい答えのなど、存在しないのだから。だから勝ち取るのだ。だから奪うのだ。中途半端は、許されない。意地でもやり抜いてこそ、真価が証明される。証明して来た者をフルールは、知っている。
「だからあたしは……これまでのあたしから変わる。甘かったわ。どんな手を使っても駄目だった。これまで通用して来たと思っていたものが全部、駄目だったから」
「なら―― そのお手並み、とくと拝見させて貰おうじゃない? もし、駄目だったら……ランディがこの世界から居なくなっちゃったら……」
不安に揺らぐシトロンと揺るぎないフルール。その対比は、紙一重。
「言わずもがな。あんたの言う要求、全部呑む」
「死んで償って頂戴」
「……分かった」
果たしてフルールのそれは、救済か。それとも贖罪か。断罪か。それは、誰にも分からない。落とし前はつけるとシトロンの前でフルールは、堂々と高らかに宣言した。




