第傪章 熒惑 10P
『Pissenlit』へ帰ると蝋燭の薄暗い明りを頼りにシトロンは、ランディの手当てを始めた。椅子を二つ用意し、一つはランディを座らせ、向かい合うようにもう一つの椅子を置き、救急箱と手拭いを奥から引っ張り出して床に置く。どれも大事には至らないが、何せ数が多い。腕を中心にシャツの胴体部も切れ、滲んだ赤い線が散らばっている。荒々しくシャツを剥いでシトロンは、水で湿らせた手拭いで丁寧に拭い、消毒液を沁み込ませた綿で手当てをして行く。真剣な表情で的確な処置を施すシトロンを前にしてされるがままに手当てを受け、ランディは、痛みで思わず顔を顰める。
「いててっ――」
「我慢なさい。こんな傷だらけで帰って来て。子供じゃあるまいし。本当に手が掛かるっ!」
「分かってる……厄介だろう? こんなのに関わる何て考え直した方が良い」
「喧しい。黙れ」
ぴしゃりと一喝され、ランディは肩を落とし、小さくなる。そんなランディの頬に華奢な手を添えて微笑むシトロン。本当にどうしようもない馬鹿で些細な事で気の小ささが表に出る。自然とその仕草でシトロンの様々な感情を呼び起こさせる。
「別にこんな面倒な事しなくたって……もっと、面白い事ならいっぱいあるじゃない?」
「例えば?」
「お買い物したり……遊びに出掛けたり……ご飯食べたり。後は、お酒」
「独りでも最初は良いけど……直ぐ目的が終わるから楽しくないだろう?」
「誰か誘えっ! そんな事も分からんかっ」
「ええっ……まあ、ルーならホイホイ着いて来るけど。あんまりにも頻度が多いと、何か変な噂が立つよ? そっちの気があると勘違いされる恐れが……」
「バカかっ。女の子、誘いなさい。暇してるの何て其処ら辺にいっぱい転がってるわ」
「誰もこんな冴えない奴なんて見向きもしないさ。誰か居るなあ……駄目元で一縷の望みに掛けてセリュールさんに挑戦してみるのも吝かじゃないね―― あっ、駄目だ。この前、滅茶苦茶、逆鱗に触れたばかりだった。後は……」
この期に及んで下らない言い訳ばかり。しかも自覚がないのだから余計に腹が立つ。少しは、痛い目を見せる必要があるだろう。シトロンは、少し考えた後、髪を耳に掛けてからわざとらしく頬を赤く染め、咳払いを一つ。それから恥じらいながら言葉を紡ぐ。
「……此処に居るって言ったら?」
「……止めてくれ。そんな恥じらいながら雰囲気のある声で言われたら尻尾振って本気で勘違いしてしまう。ただでさえ、何気ない所作に見え隠れする色気で参ってるんだよ」
「なら、馬鹿正直に引っ掛かりなさいよ」
頬を膨らませ、子供っぽくむくれるシトロンへランディは、ふっと笑いながら首を小さく傾げる。このままでは、冗談では済まされない。気を許せば、この場を漂う甘い雰囲気にのまれてしまう。今、己は試されている。半端な覚悟で相対出来るほど、手緩くはない。シトロンは、本気でランディと向き合っているのだから。
「そんな詰まんない男がお好みかな?」
「……お好み」
「……駄目だ。強過ぎる。今にも心が折れそうだ」
「はやく折れろ。折れてしまえ」
額に手を当てて何かを堪えるランディの頬を両手で掴んではしゃぐシトロン。演技とは言え、恥ずかしかったのだろう。手当てが終わり、照れながらシトロンは、蝋燭の灯を眺めながら手遊びをする。そんないじらしい姿を見せられれば、強い衝動に駆られるのも無理はない。ランディは、シャツに袖を通しながらげんなりとする。目まぐるしく変わる表情を映し出すその顔を見れば見るほどに引き込まれてしまう。
「じゃあ、逆に何が駄目なの? 何が不満なの?」
「不満は、ない。寧ろ、恐ろしい程。多分、それは男にとって理想的な何かだよ」
珍しく乗って来たランディにシトロンは、きょとんとした顔をしながら首を傾げる。その何気ない自然な仕草ですらランディにとっては末恐ろしい。音が漏れてしまうのではないかと心配になるほど胸の鼓動が加速度的に早まり、暑さも相まって薄っすらと汗が肌を湿らせた。様子を可笑しいランディを見てシトロンは、そっとシャツの隙間から覗くランディの素肌に耳を当てる。それから何かを悟り、胸から耳を離した後、悪戯っぽく微笑む。
「ふむ……もうちょっと、背伸びが必要? そしたら折れる?」
「背伸びって何さ? 君が幾ら爪先立ちしてぴょんぴょんしたって俺の方が――っ!」
思ってもみない事が今日は、何度も起きた。ルーとの口論、アンジュの剣、それよりももっと驚かされるとは。シトロンは、ゆったりと椅子から立ち上がり、ランディの肩に腕を回すと、その膝元へ大人しく収まり、額同士を軽くぶつける。
「おお―― 面白いくらい素直な反応」
互いの体温が感じられる程、体の境界が曖昧になってしまいそうな零の距離。周囲の音も遠のき、視界をいっぱいの灰色から目が離せない。熱い吐息と吐息がぶつかり合う。まるで時が止まってしまったように感じられるほど、世界は二人だけを切り取り、隔絶する。呼吸を研ぎらせて目を丸くして驚き、言葉を失うランディへシトロンは目を細め、にやりと笑う。
「ああっ――!」
「い?」
「うっ……」
「えっ?」
「おおお―― もうダメだ……御終いだっ。遊びじゃ済まなくなるっ!」
「動くな、動くなっ! 座ってるこっちが落ちるからっ!」
何かが始まってしまう予感を恐れ、耐え切れず、血相を変えてみっともなく足掻き、椅子の上で暴れるランディ。安定を失い、揺らぐシトロンは目を瞑り、慌ててランディにしがみつく。首を取られ、苦しさと痛みでランディの動揺は、止まらない。
「痛いっ! 痛いって」
「ちょっと、暴れるな。本当に落ちちゃうっ! わっ!」
「危ないっ!」
危うく膝の上から滑り落ちそうになるシトロンの細い腰を両手でやんわりと支え、安定させるランディ。添えられた無骨な手の感触に今度はシトロンが驚き、目を丸くする。胸を共に上下させ、息を整える二人。片手を首元から外し、シトロンはランディの指に自分の指を絡める。相手の存在を確かめるかのように解けては絡み合う手。
「――」
「……」
ゆっくりと額同士をまた突き合わせ、互いの目をじっと見つめ合うランディとシトロン。それからシトロンは、ゆっくりとランディへしなだれかかり、顔をランディの首元へ埋めた。汗と土、そして微かな煙草の匂い。どれも生きている確かな証だ。其処にランディは、確かにいる。ランディは、繋いでいないもう片方の手でシトロンの髪を優しく撫でた。
「よくよく思うよ……俺って本当に間違ってばっかりだなあって」
感情の誘う世界へランディは、一歩を踏み出そうとしていた。
「仕方がないから私がその間違いを正解だって肯定してあげるよ」
「なら良いか……」
後戻りは、出来ない。これまでの積み重ねが無に帰してしまう。芯に突き刺さった矜持すらもちっぽけに思えてしまう程。理性に強い感情が勝った。全ての帳を払い除け、ものにしたい。この手で己の生きた証を刻み付けたい。繋いだ手を放し、シトロンの顎へそっと添え、顔を上げさせるランディ。シトロンも拒まず、ランディの誘いにすんなりと従う。それから示し合わせもなく、同時に目を瞑り、ゆっくりと互いの顔が近づいて行く。もう、誰も止める事は出来ない。二人だけの穏やかな結末が約束された物語が始まろうとしていた。
だが、唇が触れ合う寸前の所で思わぬ乱入者により、二人は現実へ一気に引き戻され、雰囲気はぶち完膚なきまでに壊されてしまう。




