第傪章 熒惑 8P
霞む目を擦りながら上体を起こすランディ。これまで麻痺していた痛覚が呼び戻され、体の節々が痛む。切り傷の所為で服の至る所に血が滲んでいた。少しでも動けば、限界まで動いた結果、筋肉も刺すような痛みが走る。最後の一撃で頭痛も酷い。
「……でも、悔いはない。ぜんりょく出したし」
「そうか……」
「それにアンジュさんの人なりが少しだけ垣間見れた気がしたから」
「ふっ……」
少なくとも今だけは。今だけは、同じ夕陽を見ている。それだけでランディには、十分だった。腫れた頬に手を当てながらそっと笑うアンジュの横顔。同じく腫れた頬に手を添えて痛みで顔を顰めるランディ。何も解決はしていない。されど、やるべき事は、分かった。アンジュの目を覚まさせる。その向けられた視線を魅入られた何から此方へ引き戻すのだ。
「そりゃあ、こんだけ派手にやれば僕だって本性を出すさ」
「まあ、よゆーはないよね」
「全くだ……」
言葉だけでは、語りつくせないやり取りがあった。そのお陰で少し近づけた気がする。後は、きっかけがあれば。例え、些細なものであっても気付かせる何かがあれば、手が届く。
まだ、遅くはない。
「そんなアンジュさんに折り入って一つ、依頼があるんだ」
不意に立ち上がり、ランディは大きく伸びをしてからアンジュに土と汗で横れた手を差し出す。その手をじっと見つめるアンジュ。
「急に何だよ?」
「町の近くに農園があるんだけど。今、獣害が酷くてね。見回りの手伝いが欲しい」
「僕には到底、務まらないよ」
「これだけの実力を見せておいて今更、それを言うのかい?」
「必ずしも役に立つとは、限らない」
折角掴んだ手掛かりを離さぬよう、ランディはその先を紡ぐ。何が真に迫るかは分からない。可能性は、多ければ多いほど良い。その可能性を作る為ならば何でもする。それは、ランディが心に誓った。だからその一歩を踏み出す事へ恐れはない。見つめていた手を同じように汚れた手でしっかりと掴み、引き起こされるアンジュ。立ち上がり、その二人の前で燃える夕日はとても力強く印象的だった。
「……でも考えて置く。答えは、何時までに?」
「なるべく早く」
「分かった」
「よろしく頼んだよ。この演習もその為なんだ」
「お為ごかしには、丁度良いね?」
「ははっ。そうだろう」
小さな一歩は、刻んだ。けれど、それが本当に正しいかは、分からない。だが、今が続く限り間違いではない。ランディは、己へそう言い聞かせるしかなかった。
*
「いててっ――」
アンジュとの一件が終わってからランディは、痛む体を引き摺りながら一人家路についた。人目につかぬよう、現地でアンジュとは別れ、裏道を通り、何とかやり過ごす。気を引き締めて最後まで抜かりなく。あくまでも自分は、裏方で主人公がきちんと表舞台で活躍出来る為に陰ながら露払いをするのみ。
「最後の一撃。全力の八つ当たりだよなあ……」
それでも納得の行かない事は、ままある。本気の勝負とは言え、顎に貰った一撃には、私怨が混じっているのではないかと疑ってしまう程に効いた。気を抜けば、眩暈がするくらい、今もまだ衝撃が残っている。理由は、明白だ。諸悪の根源は、全て己にある。額に手を当てながらランディは、ゆっくりと目を瞑り、反省する。
「まあ、本来無関係な奴が茶々入れてるんだから仕方がない―― か」
こう言う時は、もっと自分が賢ければと思う。されど、幾ら賢くとも同じ道を歩む未来しか想像が出来ない。端から荒唐無稽な事を仕出かしているのだ。恐らく本当に賢ければ、賢しさを振りかざし、手出しなどしないだろう。傍観者を気取り、己には関係のない事だとあっさり切り捨てる筈。だから賢くなくて良かったと思う。
「うん? あれは……」
そんな風に物思いに耽っている間にやっと、我が家が見えて来た。されど、店の外灯に照らされた人影を見て思わず、足を止めてしまう。最悪の事態が目の前に迫っていた。一番も二番もないが、少なくとも今、絶対に会いたくない人物が待ち構えている。額に脂汗を浮かべ、必死に頭を働かせ、状況の打開を考えた。だが、何も思いつかない。生温い夏の夜風が焦燥感を煽る。何も思いつかず、夕闇の中、落ち着いた赤銅色のドレスを纏い、後ろ手に手を組んで物憂げに俯く彼女の下へ歩みを進めるしかなかった。
「やあ、シトロン。こんな日暮れ時にどうしたんだい?」
「……」
「黙ってちゃあ、分からない。申し訳ないけど、買い物なら明日で頼むよ」
近づいて声を掛ければ、ランディに気づき、はっとした顔で此方を見るシトロン。傷ついたランディの姿を視界に捉えると大きな灰色の瞳が揺れる。この場に居る理由は、一つだろう。既にシトロンは、ランディの動向をある程度、把握しているからだ。
「……何してたの?」
「藪から棒に怖いなあ……いや、普通にのんびり休みを満喫してたけど」
「そう……」
小さな声で呟くとシトロンは、ランディの腕の力強く掴んで袖を捲り、血の滲む小さな傷が幾つか露わとなる。それだけではなく、隠しきれない所にも額の傷や頬の打撲痕。上げればきりがない。じっと睨まれたランディは、固まって動けなくなる。
「なら、こんな怪我。のんびり休みを満喫してた人間の体に幾つも出来るの?」
言い訳など、通用しない。再び、俯くシトロンにかける言葉が見つからず、視線が宙を泳ぐランディ。怒りで震えるシトロン。叱られるのには、慣れっこだ。だが、これは違う。様々な感情が入り交じり、言葉では語りつくせない思いが渦巻いている。
「……」
「……好い加減にしなさいよ」
「……」
「黙ってちゃ何にも分かんない……分かんないよ!」
小さな口から放たれるは、痛む体に響く悲鳴にも似た甲高い叫び声。いや、正確には心に響いた。こんな事態にならない為に手を尽くしたが寧ろ、悪化させただけだった。今、シトロンにこんな事をさせているのは、己の不始末。甘んじて受け入れるしかない。
「ふざけんなっ! あんた、自分が何をしてるか……ほんとに分かってる?」
やっと顔を上げたかと思えば、瞳に今にもこぼれんばかりの大きな涙の粒。怒りと憤りの入り混じった表情。ランディの襟元を掴んで引き寄せ、湿り気を帯びた声で叫ぶシトロン。
「分かってる……」
「ぜっんぜん、分かってない!」
頬から伝って幾つもの雫が地面へ零れ落ちた。その涙一つ一つは、己の為に流されている。拭った所で止めどなく流れるだろう。その涙が止まれば、どれだけ心が救われるだろうか。だが、それは叶わない。原因が改善されなければ、きっと。何も出来ない自分が憎くてたまらない。選んだ行動の皺寄せが彼女へ余すことなく流れたのだ。
「こんな事したって意味ない。誰が喜ぶの? 誰が幸せになるの? 誰もならないっ!」
「俺が何をしているのか……君は、知っているのかい?」
「もう、説明されなくたって嫌って程、知ってるっ! どれだけ馬鹿げた事をしてるかって」
一言、一言。紡がれる度に心が引き裂かれるような気がした。他でもない自分の為に。固い決意が思わず、揺らぐ。自分よりも小さく儚い者から揺るがされるとは、思ってもみなかった。こんな筈じゃなかった弱い自分が表へ出てしまいそうになるほど。だが、最後の所でランディは、踏みとどまる。此処で足を止めてしまえば、意味がない。
「自分が傷付いたからって誰かが傷付かない訳がない……もう、終わったことなのよ。それがあの二人の選んだ結末。いいえ、あの人の選んだ答え。それが分からない訳じゃないでしょ? 子供じみた理屈なんか通じないよ。大人になりなさい」