第傪章 熒惑 5P
「ひょっとして貶しているのかい? それとも褒めてる心算?」
「少なくとも高尚な人間とは、思えないよ」
「そうだね。人ってのは……それ位の方が良い。沢山の小さな期待をその一身に寄せられて大きくなった重責を担う何てそれこそ、人を超えたナニカにならないと無理だよ」
ランディの目指す場所に見当がついたのか、今度はアンジュが先を歩き始める。後を追ってランディは、歩き出すとアンジュは、少しだけ本音を漏らす。待ち望んだものを垣間見たものの、それよりもランディは、語るその寂しげな背中の方が気になった。
「僕は、そんなものになりたくない」
「全くもって同感だ」
「でも君は、違う。例え、自分がなりたくなくて。そうでありたくないと願ってもいつの間にか、その域に片足を突っ込んでしまっているんじゃないかい?」
思いは、同じ。されど、決定的な違いがある。アンジュは、ぼんやりとした言葉を選んでランディへ問う。隔絶した何かがあると、アンジュは言っているのだ。だが、それは一番、ランディが否定したいものでもある。それすらも全て言い当てられ、一瞬の迷いが生じる。だが、それは違うとランディは分かっていた。己の規定するそれは、そんな簡単なもので納まるものではない。もっと、複雑で奇怪でちっぽけな何かだと知っている。
「いいや。俺は、人だ。人であり続けたい。恐らくその領域に達したら全ての柵や未練もなくなるだろう。少しずつ削れて何もかもがちっぽけに思えてしまう。もしかすると人によってはそれを幸福と呼ぶかもしれない。得る為に失う不毛な輪廻の輪から解き放たれるから」
全てが簡潔に完璧で何物も入り込む余地は、存在しないだろう。そんな存在になれたのならば。恐らく幸福と呼べるのかもしれない。しかし、ランディの目の前に広がっている光景は、違う。汚れ、歪み、綻び、何処か壊れて。だから美しいと思い、愛おしさが止まらない。その欠落した何かがこの茶色い瞳に映る限り、そんな存在にはなれないと分かっている。
「でも人でないと想いを紡げない。人でないとこの目に映るもの全てが灰色だ。匂いだって判別がつかなくなる。聞く音全てが雑音になり、感触も温もりですら分からない。感性を失ってしまったら全ての事象に対して何も無頓着になってしまうから。だから失ってしまわぬよう辛さや苦しさ、痛みだって受け入れる。その先に素晴らしいものが待って居るから」
「随分とばっさり切り捨てるね」
「もしかしてアンジュさんは、それが欲しい?」
「どうだろう。ほんとの所は、僕にも分からない」
迷いや苦しみがなければ、どれだけ幸福な事だろう。だが、それを失う恐怖も同時に存在する。存在意義を見出す判断材料が失われれば、誰だってそうだ。全てが順風満帆なら自身の存在は、どんどんと薄れて行く。上手く行かぬ何かが人を抗わせる。そして、先へ先へと進ませる。その先に新たな幸福を見出せるからだ。だからアンジュも望んでいない。それが知れた事でランディは、胸をほっと撫で下ろす。
「もし欲しているのなら手に入れる簡単な方法はあるよ。手を伸ばせば直ぐに届く」
「どうすれば良いんだい?」
「この世の頸木から解かれる事。全ての責任を放棄すれば」
「確かにそれは効果的かもしれない。君の言った通り、その先にあるのは無だ。個としての存在意義も全て溶け込む。受け継いだ子として齎された使命も何もかも」
「でも貴方は、それを選ばない。だから貴方は、欲していない」
「現状から言えば、その答えに帰結するね。だって列記とした事実だもの」
既に結論が出ている。例え、ふわふわと浮かんで流されるだけの存在だとしても生を否定していないのなら。少々、強引な帰結かもしれないが間違いではない。だからどうしたい。それをランディは、アンジュの口から直接、聞きたかった。その望みを。
「逆に聞きたい事があるんだ。もしかしたらそう遠くない未来。貴方が避けたくても避けられない危機的状況にあのでは? 宛ら貴方は、手負いの獣みたいだ。必死にその身に受けた傷を隠そうとしている。そしてそれは、本当に……致命的で」
戸惑い、言葉を失うがランディにはこれしか言葉が思い浮かばない。
「だから絶望している」
町で目にした時からランディには、アンジュが生き急いでいる様に感じていた。期限が限られ、残り少ない時間を懸命に生きている様に見える。他の選択を許されぬ、定めがあり、それに従うからこそ、問題なのだとランディは、指摘する。
「……どうだろうね? 分からない」
「そうか……」
「でも何時か向き合って答え合わせをしなければいけない事は、きちんと理解している」
「その答えは、正解かい? もし照らし合わせる答え自体が間違っていたとしたら?」
「恐らく、それはないよ」
「本当の答えを俺が持って居るとしたら?」
「詰まらない事を言うね。君だって探し出している途中だろ?」
互いに考えている事など、直ぐに分かる。ランディとアンジュは、似ていた。傍から見れば、違うようにも見えるが、共通のナニカが存在し、それに揺さぶられ、弄ばれている。 抗いたくても抗えない。それを覆すだけの力はないと。アンジュは、言う。
「君のそれは、単なる奢りだ。神様にでもなった心算かい?」
「意地を通す為ならなってやるさ」
「君は、人だ。しかもとびっきり高慢でちっぽけで詰まらない」
「素晴らしい誉め言葉だ。怒ったかい?」
「こんな事では、怒らないさ。僕も大人だからね」
しかし諦めが悪いランディは、頑として首を横に振る。決して叶わぬ願いではなく、手を伸ばせば届くものであり、それを叶える為に手を差し伸べている。されど、それは高慢で思い上がりも甚だしい。少なくともアンジュは、そう捉えた。願いさえすれば、自分の思い通りなどと、のたまうのだ。どれだけ手を伸ばしても届かなかった者には、腹立たしい。
「……でも、そんな事を平気で言える事が羨ましい。これまで恵まれた環境に身を置いていたから言えるんだ。思わず、その境遇が妬ましいとまで思ってしまう程に」
「これでも散々な目にあっているんだけどね」
「いいや、違うね。君は、きちんと積み重ねと結果の釣り合いが取れているんだ。僕は、全く釣り合いが取れていない。失ってばかりだった」
言葉が先行し、思いが追い付かない。寧ろ、思い浮かんだ言葉を手当たり次第にランディへ突き刺しているだけだ。そこに客観性はない。だから共感も生まれない。それは、ランディも同じ。既に許せない所までの領域へ踏み込んでしまっている。
「と言っても互いに互いを知らないのだからこれは、単なる独りよがりで僻みに過ぎない」
「俺も貴方も人を知らない。所詮、自分の杓子定規で推し量れるものをその人として定義しているだけだ。だって基準がそれしかないのだから。まあ、ほんとの所は、誰にも分かりやしない。誰もが分かった振りをしているだけ」
「……だからすれ違いが起きる」
そのすれ違いが最近、あったのだろう。だからそんな言葉がアンジュから自然と出て来たのだ。この先に何かがある。ランディは、そう実感した。分かり切った答えなど要らない。分からない答えが欲しいのだ。最後の一手を欲してランディは、帳幕へ手を伸ばす。
「しょうもない事、聞くけど。フルールと喧嘩した?」
「何でもお見通しと言いたいのかな?」
「何となくそんな感じがした。横顔が寂しそうだから」
「無粋な勘ぐりは、嫌いだよ」




