第肆章 止まらぬ心の声 10P
表に出す事は無いと誓った思いが勝手に出て来る。茶色の瞳を潤ませて必死に涙を流さないように叫ぶのが精一杯だった。叫んだ後、机に肘を付いて頭を抱え込むランディ。人の温かさに触れると今は、焼き鏝を当てられたかのように感じる。猛烈な痛みと心に流れ込む何かで悲しくなる。だから嫌なのだ。情けないランディの慟哭を耳にし、ルーとユンヌは、安堵の表情を浮かべる。目の前に居る者が亡霊でも獣でもない人間だと分かったからだ。
「なら僕らは、一緒に考えてやれる。君が出来ない事は、僕らには出来る。君に展望を見せてやれる。君が深く嵌った泥沼で一緒に居るくらい……どうって事ない」
ずっと前からそう言っている。今でも此処が戦場だ。生きている限り、静かに戦い続けている。だから逃げるのではなく、その背を自分に預け、戦えとルーは言う。どんな時であろうと、最後まで互いを見捨てずに共闘して来た間柄だからこそ。狡賢い打算を孕んだ関係でもなく、張りぼての馴れ合いでもない。明確な目的の下に集っている。言葉だけでは、表しきれない目に見えない積み重ねが一方的な独善を否定する。
「独りで頑張らなくて良いんだ。だから共に歩こう。もう、君が誰よりも一歩先に行く必要はない。僕が君と一緒に抗ってやる。君がこの町を去るその日まで……そうだ。僕らが袂を分かつのは、君がこの町から去る時だ」
もうこれ以上の言葉はない。喉が渇くまで出来る最大限を尽くし、ルーは一息つく。
「何か、告白みたい……気持ちわる」
「水を差すような事を言わないでくれよ」
疑いの眼差しをユンヌは、ルーへと向ける。勿論、ランディもルーにもそんな心算はない。思い出せば、エグリースの時もそうだが時折、置いてけぼりを食らっていた。客員扱いで呼ばれたにも関わらず、蚊帳の外に置かれれば、良い顔はしない。
「ごめんね。ユンヌちゃん、独り占めをする心算はないよ」
「えっ―― そう言う事じゃないっ!」
「はははっ」
ルーの思いは伝わった。これでは負けを認める以外に選択肢はない。
「さあ、此処から始めよう。やられっぱなしは御免だね。好い加減、流れを変えよう。此処までしょうもなく、詰まんない事態にしてくれた因果と運命って奴に唾を吐いてやる時だ」
「頼む――」
謝罪の言葉はない。これからを紡ぐのに後ろを振り返ってはならない。前を向けと言われたのだから友の優しさを踏み台にしてランディはまた、表舞台に姿を現す。
「さて、そうは言ったものの……超絶に事態は、捻じれ曲がってしまっている。どうしたものか? どうしようもなさ過ぎて僕には、さっぱり分からない」
「あんだけ啖呵切っといてそれ? しんじらんない」
「何度も言うけど、だから君を呼んだんだ。ご飯と酒の代金分、きちんと役に立ってくれ」
「さいてい」
自分の役割は此処までだとルーは、胸を張る。意思決定と方針の確認までが仕事で其処から先は、現場の仕事だと言わんばかりの態度にユンヌは、呆れ果てた。
「分かった、分かった。だからほら、何かそれっぽい事、言って。先生みたいな奴を頼む。身が入らないって言うなら眼鏡も。ちゃんと準備しといたから」
「私の部屋にあったでしょ! もしかして勝手に入ったの?」
「さっきだよ。君を迎えに行った時、さり気なく拝借しといた。ランディもこれで更に身が入るだろう? 何せ、君。眼鏡大好きだから」
やっと空気が和らぎ、ぎこちない乍らも笑顔が増えて行く。もどかしさを感じつつもランディですら表情が幾分か穏やかになった。しかしこのもどかしさは、また別の機会に別の何かとなって牙を剥く。自分でも分かっている筈なのに今は、偽りの平穏に縋るしかなかった。
「言われてみれば……俺は、眼鏡を掛けた知的な女性が好きかもしれない」
「そうなると、君は眼鏡に対して特別な感情を抱いているのではと勘ぐってしまう。つまり、眼鏡を掛けていれば誰でも良いんじゃない?」
「中らずと雖も遠からず……だね」
「バカらし」
「男と言う生き物は、古来よりそう言うものだ。諦めたまえ」
纏めにもなっていないのだが、恐ろしく説得力のあるルーの物言いにユンヌは押されて納得してしまう。本来ならば、様々な思いを秘めているもそれら全てを飲み込み、目を瞑って面目と言う言い訳を原動力に生きている。寧ろ、単純で在ってくれた方が楽なのだ。それこそ、複雑だと言われれば、投げ出したくなる。
「……今日だけだからね」
「おおっ」
その思いを汲み取り、ユンヌが折れ、ルーの用意した眼鏡を渋々、掛けて見せる。どよめく馬鹿な聴衆の反応に対して恥ずかしがり、真っ白な頬を少し朱色に染めるユンヌ。
「それでどうなんだい? ユンヌ女史」
「はああ……取り敢えず。何が何でもランディくんがフルールの手を取って引き留めないとダメ。これ、ゼッタイ。誰かが間に入ってとかは出来ません」
「そうだね。それが本来在るべき正しい姿だ」
「でもそれにはねえ……」
「現状、君が近づいただけでも憲兵に突き出される事、請け合いだ。この町に憲兵、居ないけど。昨日、試しにランディって名前を出しただけでも殺気立って刺されるかと思った」
「私もそう。絶対、触れない様にしてたんだけど偶々、話題がね……取り繕っていたけど、その時の笑顔、寒々しかった」
「それは嫌って程、分かってる」
元より、高い壁となって目の前に聳え立っていたが、それが今や、強固なものとなって壊す事すらままならない。現状、求められているのは、常識を弁えた上でその常識すらも霞んでしまう程の強いきっかけと言葉の力だ。しかしながらそれらをランディに求めるのは、無謀が過ぎる。唯でさえ、放っておいたら無策に暴走し、醜態を晒している。ある程度の御膳立てをした上で好機を見出してやる必要がある。
「さっきも言ったけど。今、君が不用意にあの子を引き留めても完全に拒絶される。だからこれ以上ないってくらい絶好の機会を作らないと」
「小手先の甘い考えじゃなくて確実に心をこう……ガッと掴む感じのやつ」
「告白じゃあ、あるまいし」
「同じくらいの心構えがないとダメ」
彼是ダメ出しを食らい、ランディは完全に目を回す。自分自身、何も其処まで特別な想いを秘めている訳ではない。それこそ、心にちらつくとある人物の面影を想うと背徳感が生れる。勿論、その背景を二人は知らない。だからランディの想いと反比例してしまっている。
「最低でも限りなく偶然を装って……それでいて二人きりで逃げ場もなく。静かな環境が必要……ルー、これから何か行事ってあったっけ?」
「うーん……これと言っては無いね……いや、待った! 丁度良いのがあるかも」
「試しに言ってみて。詰まんない事、言ったら殴る」
妙案を思いついたのか、ルーは目を輝かせる。その様子に一抹の不安を覚えたユンヌは先ず、自分に耳打ちをするよう厳命した。事は、慎重さを要する。これで子供じみたしょうもない提案であれば寧ろ、逆効果だ。まかり間違って安易にランディもその妙案とやらに乗っかってしまえば取り返しがつかない。
「流石に空気は読むよ。簡単だ。日曜の礼拝があるじゃないか?」
「それなら……確かに話が出来るかも。でも引き留めようにも手立てがない。そもそもフルール、よっぽどの事がないと参加しないし」
年に一度在るか無いかの珍しく建設的な意見にユンヌは、心動かされる。
「そこは大船に乗った心算で僕に任せてくれ。良い考えがある」
「本当に? あんまり信用出来ない。どう言う方法?」




