第肆章 止まらぬ心の声 6P
例え、その有り触れた光景に自分が居なくなったとしても。それでも守りたかった。この想いだけは、ランディの心の底から湧いている。寧ろ、その想いに縋っているから今もまだ、この地に二本の足で立っていられた。今もランディは、変わらない。いや、以前の大義に縋る情けない己から一歩踏み出し、己の根っこに迫り、素直な醜い欲望を受け入れ、それに従っている。誰が為の闘争と言う言葉を胸に秘め。
「ごめん、君との約束は守れそうにない。色んな色の綺麗な絵の具を貰っても俺の絵筆には、黒が芯の奥深くまで沁みついてる。君に見せられるものは、描けそうにない」
身勝手な事は、重々承知。これまでの恩恵が無碍になったとしてもその素晴らしさを知れただけでランディは、良かった。それを目の前でむざむざと失うくらいなら例え、他者の命を奪う結果となっても惜しくない。
「だから……だから君は。君だけは、俺の分まで沢山の絵を描いて。君の人生と言う色鮮やかな画布をもっと素晴らしいものに仕上げてくれ」
時は来た。もう心残りは一つもない。そう自分に言い聞かせて。ランディは、フルールの手に己の手をやんわりと添えて胸元から引き離す。そしてショーケースの上からパンを回収し、代金を置いて店の扉へと歩み始める。
「待って……」
「……パン、ありがとう」
「待ちなさいっ!」
「いや、もう行くよ。君も俺が君の言葉を理解する時を待たなくて良い。長い間、迷惑を掛けたね。とても良くしてくれたのに。こんな形になって本当に済まない」
「だめっ……」
「駄目じゃない。恩を返す心算で君の傍に居たけど、結果、更に迷惑を掛けてばかりだった。俺は、もう君に迷惑を掛けたくない。何より、そんな悲しげな顔をして欲しくない」
ランディを引き留めようとフルールは、シャツの後ろを握り締める。幾つも雫が店の床に零れ落ちる。涙で滲んだ声で必死に引っ張り出そうとして来るフルール。その優しさに当てられ、揺らぐ心を今一度、引き締める。
「ずっと思ってた。この関係は宜しくないって。俺が何かをする度に最後は、君の下で帳尻合わせをしていた。君を頼りきりにしている。今だってそうだ。俺は、俺の間違いを自覚する為に君を使ってしまっている。そんな事、本来は許されるべきじゃない」
「いいえ、違う。そうじゃない。もっと別にあったでしょ? 結果は……変わらなかったかもしれないけど。何で早く相談してくれなかったの? 頼ってくれなかったの? 信頼してくれていたんじゃないの? どうしてあたしを遠ざけたの? 貴方にとって」
お互いの為に。身勝手なお為ごかしで道理を無理に突き通そうとするランディ。それは違うとフルールは、首を横に振る。言葉を詰まらせ、フルールは包み隠さず、本音を曝け出す。
「―― あたしは、何なの?」
小さな口から止めどなく溢れるか細い心の声。ランディは、その声を静かに聞く。
「あたしは、貴方が蒐集した絵画じゃない。小奇麗な部屋の壁に掛けられて大事にされるだけの存在? 傷付かない様に。色褪せない様に。少なくともあたしはそんなんじゃ――」
「いいや、そうだよ。束の間でも君は、俺に人らしさを思い出させてくれた。君は、否定するかもしれないけど、いつも天恵に等しい言葉を俺に掛けてくれる。そうありたいと思える程の笑顔を……色んな表情を俺に見せてくれる。だからずっと変わらず、そうあって欲しい」
弱い己を肯定し、手を差し伸べてくれたフルールへランディは、本当に感謝していた。人として尊敬していた。そして、特別な力を持った強い人間だと認めている。だからその特別な力を自分ではなく、他の誰かに使って欲しかった。
「これからは、俺に構わず、色んな人に分け与えて欲しい。君の持つ素晴らしい力を」
「……分かった。貴方の意思は変わらない。もう何を言ってもあたしの言葉は、届かない」
「そもそも俺には、勿体なかったんだ。君は、眩し過ぎた」
ランディは、フルールの繊細な指を振りほどき、ゆっくりと振り返るとその涙で濡れた目元を武骨な指で優しく拭い、微笑む。これで良かったと思いたかった。傷付けたくない。悲しませたくない。それがランディの本心であった。だからフルールとは延々と平行線のまま。終ぞ、互いに交わる事はない。それでもランディは良かった。
「大丈夫、俺は独りでやって行ける。その為に恐ろしい悪魔とも契約も交わした」
「……何よそれ? シトロンの事?」
「いいや、違う。シトロン何て小悪魔くらのもんさ。俺が契約したのは、もっともっと、狡猾で凶悪な悪魔だよ。今は、少し仲たがいをしてるけど」
今だけは、精一杯の強がりを顔に貼り付けて。気付かぬ振りをし続け、歪んでしまった結果だ。故意に間違い続けた己への罰だ。そう言い聞かせるランディ。
「これでお暇する。勿論、これからも君の良き友としてありたい。そして、君と肩を並べられるくらい強くなる。頑張るから……だから……」
「もう、話したくない」
「そうか……ごめん」
拒絶されても仕方がない。誰も選ばない最悪で最善の手段と取った。結果など、火を見るよりも明らかだ。フルールの瞳から輝きが失われており、虚ろな瞳は何も映さない。
「だいっきらいっ!」
ただし、はっきりと嫌悪の感情だけは伝わって来た。これが最後の砦だ。この先を越えれば、最後に待ち受けるのは無関心と言う虚無。本当にランディは、フルールにとって何者でもなくなる。例え、負の感情であってもまだ心に留められている事へランディは、感謝する。そして己の不甲斐なさへ心底、絶望した。
「俺は、君の事が好きだよ」
「っ!」
これが最後の面倒事だ。ランディは、晴れやかに笑った。
「どうにもならないの? どうしてこうなっちゃうの?」
「やめておくれ。俺の意志が揺らぐ」
もう、引き返せない。フルールを置いて今度こそ、店を出るランディ。扉に手を掛け振り返る事無く、小さな声で呟く。
「本当にごめん」
これで自分なりのけじめはつけた。それが正解であろうとなかろうと関係ない。もう季節は初夏を迎えてようとしているのにも関わらず、酷く心が凍えた。自ら退路を断ち、後は前に進む。どれだけ犠牲を払おうと。
*
「ああ……ほんとに君は……まさか此処までやらかすとは……想像もしてなかった」
「ルー、ほんとの事だとしてもそんな真正面から言っても仕方がないでしょ?」
「……確か、今日はルーの奢りで楽しく飲む予定だった気がするんだけど」
フルールと決別した翌日。ランディは、ルーから呼び出しを食らった。始めに聞いたのは、快気祝いで夕方から飲みに行く誘い。されど、蓋を開けてみれば、詰所へルーとユンヌに強制連行され、酒と簡単な料理を囲んでの尋問。理由は、勿論分かっている。けれど、話す事は無いと恍けて見せるランディ。何方も仕事終わりか、ルーは、白いシャツに黒のベストとスラックス姿でユンヌは、簡素な茶色のドレスに前掛けをしている。
「駄目です。今日は、お説教の日」
「本日は、特別講師をお迎えしたからきちんと反省したまえ」
机の燭台に照らされながらむすっとした顔で凄味を利かせるユンヌと半笑いで冷やかすルー。そんな二人の前でランディは、居心地が悪くなる。今更、釈明も何もない。既に事は、起こって居る。ランディがフルールを傷つけた事にかわりはない。
「冗談抜きにほんとの馬鹿なの? 死ぬの?」
「怒られる理由がさっぱり分からない」
「しらばっくれるな。単純に死ぬほど、叱られるだけで良かったのに。どうしてこうも君は、全力出して間違った選択肢を選ぶんだい? 天邪鬼も好い加減にしなよ。そういうのは、もっと別な場所で発揮してくれ。君の事を無能な働き者と言うんだろうね。僕、初めて見た」