第貳章 焦がれ、狂う 7P
「はっ―― はっ……」
乱れた呼吸の所為でいつもより余計に喉が渇く。鞄から水筒を取り出し、喉を潤す。外套のお蔭で戦闘時より、濡れる事は無くなったが体温の低下は、避けられない。初夏を迎えようとしているのにも関わらず、口元が勝手に震え出す。悪寒も止まらない。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂とはこの事だろう。しかしこの場で力尽きてしまっては、野垂れ死ぬのが関の山。誰の助けも来ない現状において自分だけが頼りだ。必死に馬へとしがみ付いて町が見えて来る事を祈るばかり。そんな心細い状況が幾ばくか続いた後、漸く町の見慣れた景色が遠くに見えて来た。例え、絶え間なく降り続く雨粒や薄く張った霧の壁に隔たれたとしてもランディには、はっきりと見える。穏やかな灰の色に染まる町を見てこれ程嬉しかったのは、あの時以来だろう。心の底から安堵するランディ。
「着いた――」
今にも落馬しかけるくらい憔悴しきったランディは、最後の力を振り絞る。草原を抜け、門を潜り抜けた所で遂に力尽きる。両手から手綱がゆっくりと抜けていくを手の感覚でランディは、理解した。既に視覚は機能しておらず、自分でも目を閉じているのか、開いているのかさえも分からない。
姿勢を保つ事もままならない。重力に身を任せ、馬から滑り落ちて行く最中、遠くの方からランディを呼ぶ声が聞こえた。されど、それに反応する事、叶わず。意識は、闇に飲まれるのであった。
*
「何でこう言う厄介事がある日は、天気が悪いものなのか? 恐らく、私の愛らしさに天気の神様が嫉妬しているに違いない。きっとそうだ」
ランディが町へ辿り着いたのと同時刻。シトロンは、家の用事で外出していた。雨傘をさして服に泥が跳ねないよう慎重に小股でぬかるんだ大通りを歩くシトロン。仕事を押し付けられ、気にいらないのか、人目も憚らず、愚痴を漏らす。とは言え、普段は雨の日であっても賑わいを見せる大通りは、殆ど人がいない。理由は、言わずもがな。活動制限が出されている為、どの店も臨時休業していた。その為、本日はほぼ皆、家に籠って各々、自由に過ごしており、シトロンも降って湧いた貴重な休みを謳歌しようと考えていた矢先、家の用事を頼まれ、今に至る。おまけに雨足も強く、まさに踏んだり蹴ったりと言えよう。
「……とでも言って気を紛らわさないとイマイチやる気が起きない」
遠くで響く雷鳴や雨の音も相まって誰かに聞かれる訳でもない。少し立ち止まり、泥で汚れてしまった革靴を眺め、顔をげんなりとさせ、肩を落とすシトロン。
『でもこう言う日って何面倒事が重なるからイヤなんだよぅ。元々、外出も控えるよう言われてるから更によ……大通りだって何時もより人がずっと少ないし。それに比例して私の独り言も増えるばっかり。何か、他の事を考えて気を紛らわさないと』
それからどんよりとした灰色の町並みを眺め、心の中でぼやく。
「晩御飯は、マロン姉の番だから……私は、何も考えないで大丈夫」
口元に人差し指を当てながら嫌な予感を払拭する為、別の事を考え始める。だが、既に手遅れで事態は、水面下で進行していた。あずかり知らぬ所で歯車は、回り出していたのだ。
「何、あれ? 馬だ。まあ、来る人には、伝えらんないもんね……」
ゆっくりとシトロンが町の門まで歩いて行くと、目の前から馬に乗った旅人風の客人が見えた。この町の活動制限は、近隣の村々に伝わるのみで全ての来訪者へ伝達は出来ない。
先ほどからすれ違う人々も外からの客人が殆ど。されど、それらの者たちとは、明らかに様子が可笑しく、シトロンは違和感を覚える。一つ目は、荷物の少なさと装備が軽装である事。二つ目は、乗っている馬に見覚えがあった事。そして三つ目は、重心の取れていないふらふらと体を前後左右に揺らす搭乗者。
「でも何だか様子が―― あっ!」
訝しげに様子見をしていると、搭乗者が落馬するのを目にしたシトロン。あまりの異常事態にシトロンは、服の汚れを気にせず駆け寄り、隣にしゃがみ込んで外套のフードに隠れた顔を覗き込む。フードの下に隠れていたのは、見知った者の顔。
「大丈夫ですかっ! ってランディ君? どうしたの? ねぇ、しっかりして。どうして町の外に……兎に角、如何にかしないと」
倒れたランディへ必死に声を掛けるもその瞳は、固く閉じられたまま、一切の返答はない。
また、呼吸も浅く、顔には切り傷や打撲の跡が見受けられ、外套の下を確認してみれば、服の至る所に血が滲んでおり、危険な状態であると分かった。
「ランディ、馬に乗って! 私が引いて歩くから。お家に帰ろ?」
動揺を隠しきれず、力のない声で反応がなくとも呼びかけ続ける。そして倒れたランディの上体を起こし、立たせようと尽力するもその四肢に力が入る事はない。このままにしてはおけないと、必死になって体を持ち上げ、やっとランディを馬に乗せる。息も絶え絶えになりながら額の汗を拭うシトロン。
「はっ……はっ……流石に男一人を持ち上げるのには、骨が折れる」
難局は乗り越えたが、依然として深刻な事態である事には変わりない。一先ず、己の用事はおいてレザンの下へランディを届ける事となった。
「急がないとっ――」
馬を引いてシトロンは、もと来た道を戻る。思わぬ形でぼやきが現実になってしまった。
血相を変えて雨に濡れる事も厭わず、小道を早足で進み、目的地が見えて来た。
「着いたっ! ランディ、ちょっと待ってて。レザンさん、呼ぶから」
見慣れた店が見えて来た事でシトロンの声に活力が戻った。店の前まで着くと、ランディと馬を残し、シトロンは足を踏み入れる。暫く静かだったが、慌ただしい足音と共にレザンを連れた焦るシトロンの声が戻って来る。
「レザンさんっ! 急いで。ランディが!」
外に出てランディの姿を目にし、レザンは言葉を失った。目を大きく見開いて力なく、垂れ下がったその手に己の震える手を伸ばし、やっとの事で掴む。そしてやるせなさに顔を歪める。こうなる事は、分かり切っていた。止められなかった己を恨むレザン。しかし、今はそんな思いに駆られている場合ではない。
「――っ! 中に入れる。この事は、他に誰が?」
「私だけだよっ! だって今日は、誰もほっつき歩かないもん。でも、どうしてこんな事に……怪我もしてるみたい」
「説明は、後だ……寝室に運ぶ」
「はいっ」
ランディを馬から降して肩を回すとその体を引き摺って店の中へと入るレザン。シトロンもその後を追って入って行く。二階にあるランディの部屋まで運び込み、雨に濡れた服を脱がしてベッドに入れる。目を閉じてベッドに横たわるランディの前で己の無力さを実感し、額に手を当て立ち竦むレザン。同じくシトロンも椅子に座ってじっとランディを見つめる。けれどもこのままで良い筈もなく。一刻も早く、治療をしなければならない。
「くっ――」
「ノアさん、呼んだ方が良いかも……」
「此処を頼めるか? 私が呼ぶ」
「はいっ」
呆然自失のシトロンが呟いた提案を聞き、我に返ったレザンは、踵を返して部屋を出る。
そして様々な感情の入り混じった瞳を向け、シトロンは、ランディの手をそっと取る。
「ほんとに放って置けない子……ちょっと目を離したらこうなんだもん」
その声に色はなく、これまでとは違った意味で発した言葉なのは間違いない。それからシトロンは、ヌアールが来るまでじっと同じ姿勢でランディを見守り続けるのであった。
「思った通り無茶をしましたね。レザンさん」
「御託は、要らない。早く処置を」
「分かってます。先ずは、怪我の治療ですね」




