第壹章 過去 7P
「そうか……ならいい」
その瞳に映るのは、諦めか、それとも覚悟か。
どちらにせよ、ヌアールも忠告が届かないと分かり、これ以上言及する事はなかった。
「有難うございます。でも、もし俺がその力にのまれてしまったら。ノアさん、俺を止めて下さい。お願いします」
「ぜってー頼まれてもやるもんか」
「ははっ―― ノアさんらしいですね」
加えて既にランディは、レザンと言う名の付いた悪魔と契約を交わしている。帰る場所があり、自分自身の未来を切り開く為、突き進めと言ってくれる人が居る。ならば、自分が望む世界を維持する為、その力を揮う事も厭わない。もしそれが原因で他人から簒奪者と罵られようとその業を甘んじて受け入れる覚悟があった。
「俺からも警告が一つあります。後、四日もすると化け物がこの町へやって来るでしょう……当日は、絶対に町から出ないで下さい。絶対にです」
「っ! お前……」
浮かべていた笑みは、何処かへ行き、その目に冷たい色を宿したランディは、いきなりヌアールへ警告を促す。予期せぬ話にヌアールは、動揺を隠せない。気が付けば、ヌアールの手元から鞄が滑り落ちていた。ランディは、鞄を拾い上げると手渡す。
「理由は分かりません。けど、ねばっとした嫌な雰囲気を漂わせながら彼方の山の中腹にいます。多分、越えて此方に向かって来るでしょう。他の厄介事は、特に気にした事がないので分からないんですけど、この感じだけは、ずっと頭にこびり付いて離れないんです。駄目ですね……どうしても……昔取った杵柄からは、逃れられません」
肩を竦め、わざとらしく落ち込むランディ。
それから白いシャツの襟を正し、背筋を伸ばすと遠くの山々へ視線を向けた。
「駄目だ。黒く染まって赤い色すら殆ど見えない。もう、意識は……ないか。久々だなあ……これだけ『焦がれ』が強いのは……本当に厄介だ。正直、関わりたくないなあ」
誰にも聞けぬくらい小さな声で呟く。そもそも野菜を買った後から気付いていた。通り過ぎればと様子を見ていたのだが、真っすぐ此方に向かっている。ランディは、今一度、覚悟を決める。逃げ場は、何処にもない。後は、矢面に立って敵の首筋に食らいつくだけだ。
「到達する前に俺が惹きつけます。あくまでもこの話は、此処だけで留めて頂けると」
「分かった」
「では」
町の剣として。その力を揮う時が迫っていた。
*
配達を済ませ、店の業務も全うし、その日はつつがなく、終わりに差し掛かっていた。夕食を終えて湯浴みをし、特別な予定もないので後は、いつも通り明日に備えて睡眠に勤しむのみ。思わぬ珍客が来るまでは、ランディもそう安易に考えていた。寝巻に着替え、居間で煙草をくゆらせつつ、寝るまでの間、読書に勤しんでいた所、フルールが訪れたのだ。約束事は無かった筈と、内心焦りながら自室に招いたランディ。居間では、レザンが珍しく転寝をしており、邪魔をしたくなかった。一先ず、椅子を勧め、下から葡萄酒と杯を二つ頂戴し、手渡すと葡萄酒の瓶を机に置き、自分も椅子に座る。方やフルールは、出迎えてからずっと俯き、目を合わせようとしない。
既に湯浴みをし終わった後なのか、化粧はしておらず、髪を緩く纏め、肩から流している。外出用の普段着を着用してはいるものの、思わず邪な感情が先行してしまう程に何時もより色めかしさが目立つ。今も特に何をするでもなく、葡萄酒の入った杯で手遊びをしながら黙ったままなので少し気まずさを覚えたランディは、軽く用向きを問う事にした。
「それでどう言った風の吹き回しで君は、此処に?」
「むっ……朝の話で来た」
「ああ―― なるほど」
そう言うと、杯に齧りつくフルール。直ぐに合点が行き、ランディは、覚悟を決める。子供の喧嘩の延長線上と勝手に思い込んで水を差し、無礼を働いたのだからその報いは、甘んじて受け入れねばなるまい。今更、あれこれ言い訳を並べても格好がつかない。
「悪かったよ、ごめんね。茶化す心算は、なかったんだ」
「どうせ、丸く収めようとか考えてたんでしょ? 分かってる」
「君には、誤魔化しが効かないね。本当にすまない」
頬を膨らませてわざとらしく怒って見せるフルール。多少の事は目を瞑り、紳士とあれ。処世術として目の前の不遇に抗うよりも一歩その先を見据えての行動を心掛けている。
思う所はあれどもフルールの感情に寄り添った。
「痛くしてごめんなさい。怪我は?」
「手心加えて貰ったから大丈夫だよ。それに元々は俺が蒔いた種が立派に育った訳だ。何時撒いたか、それと何の種を撒いたのかは、自分でも定かじゃないんだけどね」
「美味しそうな鴨が葱を背負って尾羽を振りながらよたよたと歩いてたってのが正解。ランディにそんな高度な事、出来ないでしょ?」
短い前髪を弄りながら朝の出来事を振り返るランディ。結局の所、推測の域を出ていないから自爆の道を選んだ。まだ、表面的な事象しか知らないので出来れば、説明が欲しかった。
「勿論、分かってるさ。でも何かが発端としてないと、そもそも問題は起きないでしょ? だから堂々と原因だと名乗りを上げたのさ。例え、最後にはしょうもない道化扱いをされるとしてもね。何より、今日の出来事は、真意が分からないから困ったんだ。只、揶揄われているだけならまだマシだよ」
「それも分かってるんでしょ? 年甲斐もなく、玩具の取り合いをしてるだけ」
「なら安心した。当面の間は、丈夫でちょっと興味の湧く玩具になってるさ」
「そう言う捻くれた所は、好きじゃない」
「これは、失礼。心に留めて置くべきだった」
むくれてそっぽを向くフルールにランディは笑い掛ける。同時に自分の考えていた推測が当たってほっとした。何か別の理由であれば、対策が必要である。しかし、フルールの答え合わせでこれからも耐え続けていれば、時が解決してくれると明確な正解が見えた。
どちらも憂いが晴れてまた、暫く沈黙が続く。そんな中、今度はフルールが卓上に置いてある一冊の本に目を止め、口を開く。
「前から気になってたんだけど……それ、何?」
「ああ、これ? これは、小説を書いているのさ。半年くらい前からやり始めた俺の趣味」
フルールが指で指し示すとランディも理解が及び、簡単に説明する。この町に来てからと言うもの、空き時間を見つけては、執筆活動に勤しんでいた。自室に籠って集中し、時には気分を変える為、外出し、ユンヌの所で珈琲を片手に頭を悩ませる事も。そんな様子を見られていたのだろう。
「偶に何か書いてるなって見かけたけど……ランディには、絶対に文才何てない筈」
「ははっ―― おっしゃる通りだよ。一応、最初に下書きを作ってからこの本に清書してる」
怪訝な顔をして疑うフルール。言われると分かり切っていたのでランディも動じない。寧ろ、自分自身も柄にもない事をしていると思っている節がある。けれどもこの執筆活動には、続けなければならい理由があった。どうしても果たさなければならない約束が。
「どんな内容なの?」
「とある国に生きていたへっぽこな見習い兵士たちが奮闘する物語さ」
「ふーん。それでどうしてそんな物語を書くきっかけが?」
「それはね……君にならもう話しても良いか。口外しないと約束してくれるかい?」
「約束するわ」
言ってしまえば、自伝の様なもの。もっと厳密に言えば、ランディの言った日記や備忘録と呼ぶのが正解かもしれない。決して忘れてはならない友との掛け替えのない思い出や直面した出来事の詳細を事細かに書くのが目的だ。




