第壹章 過去 3P
「随分とお利口になった様で良かった。躾の甲斐があったわ」
ランディがゆっくりと振り返れば、きちんと身嗜みを整え、いつもの服装に前掛けをして編籠を手にしたフルールが。恐らく、仕事で立ち寄ったのだろう。挑発的な視線と口元には、苛立ちを湛えている。思ったよりも複雑な状況にランディは、頭を抱えたくなった。これで思い当たる節を必死に考えるのは何度目だろうか。何度も思い返してみても普段の行いは、悪くないと己の評価は揺るがない。
考えている内にとある二つの文字に行き当たる。つまり、これは試練。よく神は、乗り越えられない試練を与えないと言うけれどもそれならば、もっとまともな試練があっても罰は当たらないだろう。ランディは、素直にそう思った。
「俺だって馬鹿じゃないよ……きちんと学習するさ」
「あら、ランディくんってわんちゃんだったの?」
「そうよ。最近、間抜け面をする事がなくなってやっと可愛げが出て来たところ」
「はい。わたくしめには、人が当たり前に享受出来る権利など、既に御座いません……」
どうにでもなれと、その場の流れに身を任せるランディ。状況は手に余る。ならば、好きなようにやらせて体力を温存すべきだ。いちいち全てに反応していたら身が持たない。
「ランディくんは、飼い主を選び直した方が良いと思うの。わたしだったらどんなお間抜けさんでも甘やかしてあげるよ」
「アンタのその悪い癖、好い加減直しなさいよ。ほんと、単純」
「何の事?」
「隣の芝は、青く見えるのは仕方がないんでしょうけど……生憎ね。別のおもちゃを探しなさい。小さい頃からずっとそう。あたしが遊んでた人形とか、いっつも横取りして」
「楽しいおもちゃを独り占めするのが悪いと思うの。それにあそこにあったのは、皆のおもちゃだったじゃない? ほんと、昔の事を根に持つよね」
「渡したら直ぐに飽きてほったらかしにする所までが通常営業」
「あんたみたいにボロボロになるまで酷使するよりは、マシじゃない?」
慈愛に満ちた笑みを浮かべ、飄々とした態度で耳に心地良い甘言を囁くシトロン。一方、静かな怒りをその身に宿し、甘言の実情を詳らかにして行くフルール。
『そうか……俺の立場は、恐らく……』
可愛く言えば、子供同士が繰り広げるおもちゃの取り合い。恐ろしく表現するならば、猫や犬が食べる気はないけれど、片方が捕まえた哀れな鼠を取り合う構図だ。互いに食いついて離そうとしない。悲鳴を上げる鼠の首根っこと足に双方が噛みつき、どちらが引っ張り合いで勝つか競っている。恐らくこの勝負は、決着がつかない。その前に鼠が引き千切れるのが先なのだから。そしてランディの配役は、言わずもがな。これから先に待ち受ける悲惨な未来も容易に想像が出来る。真っ二つに引き裂かれるか。散々、弄ばれて精神をすり減らすか。足元を見られていいように使われ、あっさりと捨てられるか。
三択の中ならいっそのこと、真っ二つにされた方が幾分かマシかもしれない。
「それじゃあ、俺は仕事があるからこれで……」
「ランディくん、誰の所為でこんな事になってると思ってるの?」
燃え上がる怒りの炎が二つ。少なくとも自分の所為ではない。即座に頭の中でこの答えが浮かんだランディ。問題の中心は、さもランディにある様にも見えるがダシに使われているだけ。簡潔に言えば、二人のじゃれ合いに巻き込まれているのだ。
「巻き込まれるの……薄々、勘付いていたでしょ?」
「此処まで酷くなるとは、思ってもみなかった」
「自業自得ね。始まったら飽きるまで終わらないわ」
「ぐぬぬぬ……」
フルールは、忍び足で立ち去ろうとしたランディの首根っこを掴んで引き戻し、耳元で囁く。ランディは、小さい声で言い訳を呟くもあっさりと切り捨てられる。
『少なくとも俺は、こんな日常を望んでない……もっとお伽噺に出て来る様な花畑に蝶が飛んでいる穏やかな……心安らぐ癒しが欲しい』
これでは、少しも楽しくない。実際の現実は、非常で騒々しい。もっともっと楽しい事がいっぱいあるよと言う言葉はなんだったのだろうか。甘言にまんまと誘惑された嘗ての自分。町の滞在を再検討しそうになる。このままで良い訳がない。
「そうだよね……ランディくんにとっては、こんなのお遊びの範疇。私の気持ちなんてどうでも関係ないよね? 分かってる……君は、移り気で一処に落ち着かない人じゃないかって薄々、思ってた。だっていっつも八方美人な事ばかり言うんだもの」
芝居がかった白々しい追撃。あざとく袖を目元に当てよよと泣くシトロン。勿論、これも演技の一つ。下を向いたその顔は、笑っているに違いない。
「揉め事を起さない様に丸く収めようとか、分かるのよ? それってとても素晴らしい考え方。でも、それって貴方の前に自分だけを見て欲しいって思っている人が現れたら残酷よ? だってどんなに願ってもそれが叶わないんだもの。それでも貴方は、そんなまやかしを続ける? それとも縋って来たキョージって奴を圧し折ってもその人の為に殉じれる?」
泣く演技をしながら饒舌に語るシトロンを前にランディは、言葉を失う。
『あれっ? 何でこんな返答に困る難しい話に?』
不意に降って来た質問の答えは、無い。いや、在るには在る。だが、その篤実さを差し出すに相応しいと思える相手が目の前に現れたのならば、最後には悪魔にでも魂を売る自信がランディにはあった。だが、その引き金がどの時点で発生するかまでは定かではない。また、その引き金が何なのかも分かって居ない未熟者なのだから。また、身も蓋もない話だが、もしその真っすぐな感情を手に入れても必ずしも報われるとは、限らない。全てを差し出しても結果が繋がらない事など、世の中にはごまんとある。全てを投げ捨てて殉じ、何も成さなかった時。人は、それを挫折と呼ぶのだろう。ランディには、その挫折の先にどんな自分がいるか、想像もつかない。
「……」
黙りこくるランディ。フルールは、その様子を静かに見守る。
「全てが欲しいって我儘だわ。随分と欲深いのね」
冷ややかな声色で言葉を紡ぐフルール。今までとは違って真面目に。ランディの葛藤を理解している。今、この場に相応しくない話題で此処から先は、冗談で済まされない。さり気なく、警告が織り込まれていた。
「でも、それが本当に自分が思ってたものと違った時。逆にアンタは、どうすんの? 欲望に忠実なアンタは、簡単に捨てるでしょ? そしたら差し出した当人は、どうすれば良いの? その覚悟を問えるだけの価値がアンタにあると思ってるならとんだお笑い種だわ」
「あんたは、欲しくないの? そんなのウソ。本当は欲しい癖に。それって只の虚勢でしょ? 上辺だけの倫理観を振り翳す詰まんない虎の威を借る狐ね。代弁者を騙る偽物が人の価値にケチをつける方が馬鹿馬鹿しい」
「ふむ……」
元来、人は何かしらの罪を己の中に宿す。満遍なく、全ての罪を網羅したものや一つだけを宿すもの。それは、生きているものの数だけ数多の分岐がある。でもそれが本当に悪だと、断罪出来るのかと言えば、それは違う。人は、罪と共存して来た。必要悪である。
それがなければ今頃、衰退の一歩を辿って居ただろう。逆説的に考えれば、その罪が存在する世界そのものも罪である。世界がなければ、罪も存在しない。そんな矛盾を孕んだ酷く醜く美しい世界を生き抜くには、毒を以て毒を制すしかないのだから。また、それらの罪は、時に人から拘りと呼ばれる。




