第伍章 灯台下暗し 1P
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「それで? あたしが一生懸命、汗水流して仕事している横で貴方は、初日からのんびり座って仕事をしつつ、シトロンと優雅な昼食を堪能して二日目は、異国情緒溢れる可愛い子と逢引き? 良いご身分だわ。ほんと、羨ましい」
「シトロンと昼食を食べた事は、本当だけど……他は、話が盛られている節がある。誤情報だね……情報に踊らされているよ、フルール」
長椅子に並んで座るランディとフルール。祭りの三日目。最終日、ランディの相方は、まさかのフルールであった。今日のフルールは、いつもの真っ白なシャツではなく、青いシャツに黒いロングスカート姿でお洒落を意識しての出で立ち。眉間に皺を寄せて腕組みをしてなければ、ランディは何時までも眺めていた事だろう。されど、今日は事情が違う。
集まって早々に裁判が始まった。被告は、ランディで弁護人も裁判官もいない。黙秘権の行使も許されず、存在するのは自白を強要する検事役のフルールのみ。嘗て横行していた魔女狩りに寧ろ、性質が似ている。言い訳をすれば、細い指で手の甲を抓られ、黙って居ると、固い革靴で脛を蹴られる。今の下らない言い訳は、どちらも一遍に行われた。これまでに経験した事のない危難がランディを襲っている。
「紺色の髪を長く伸ばした大きな三角の獣耳と真っ赤な瞳が特徴的な背の高い女性だったそうじゃない。共和国から来た方かしら? いろんな所から目撃情報が入っているみたい。随分と楽しそうだったって」
「俺の言葉とそんな出所もあやふやな目撃証言、どっちを信用するの?」
「あやふやな目撃証言。火のない所に煙は、立ちません」
「左様ですか……」
既に裏付けも取られており、心証も最悪だ。
人情に訴え掛ける手も呆気なく失敗に終わる。
「と言う事は、事実として認めるのね?」
「知り合いの娘さんが偶々、この町に来たから……案内していただけ」
「見苦しい言い訳ね」
「本当だって」
勝利を確信したフルールが問い質すと、ランディは自白をする。これ以上の言い逃れは出来ないと悟り、情状酌量を狙う方向へ移ったのだ。勿論、フルールの言いたい事は分かる。
人の気も知らないで遊び歩いていたのだから怒りを買うのも当然だ。
「ごめんなさい」
「気にしてないわ。少しは、元気になったみたいだし。丁度良い気分転換になったのなら」
「―― 心配、ありがとう」
「全くよ。人の気も知らないで。毎回、毎回、どれだけ心配してるか」
「おっしゃる通りです。ご迷惑をお掛けしております……」
縮こまるランディと大きく溜息を吐くフルール。
穏やかでない沈黙が少しの間、続く。
「まだ、今も怖い?」
「うん、とっても」
「そっか……仕方ないね」
ランディは、机の下で右の手首を左手で握り絞めた。今でも地獄を垣間見たあの夜の事は、鮮明に記憶している。もしかすると、今もその地獄にいるのではと思うもある。天国と地獄の狭間、地上にいるからこそ、垣間見る事が出来る幻想か。それともこの世が地獄そのものなのか。しかし今だけは、その地獄を肌身に感じなかった。
「でも、逆に安心したかも」
「何が?」
「ランディも人なんだって分かったから。前の時は、悲しいのと苦しいしか分からなかったけど、きちんと人並みに怖がる事が出来るんだって分かったから。そう言う所、ひた隠しにして誰にも絶対に見せたがらないだもん」
にっこりと笑うフルール。
「一つだけ馬鹿だなって思うのは、大して困ってない時には、大袈裟に困った素振りする癖に死ぬほど困っている時は、口が裂けても絶対に言わない事かな?」
地獄の一端を垣間見る事が出来るのならば、逆も然り。世界は、偏って出来ているのは無い。見えない均衡によって成り立っている。それを知る事が出来たのならばもう何も。
「幻滅されるのが怖いんじゃなくて本当に怖い事を知って居るからそれに怯えてるんだもん。誰にもそんな怖い思いして欲しくないって思ってるんでしょ? だから自分だけものにしようとする。本当に貴方って欲張りね」
「貧乏性が板についてるんだ」
「一番に逃げ出したい筈なのに……ちょっとしかない勇気を振り絞って震える体を必死に抑え付けて……誰よりも前に居ようとする。貴方のそう言う所、あたしは好きよ」
フルールの言葉が壁を。世界を少しずつ壊して行く。真っ暗な暗闇と朽ち果てた墓標だけの世界に光が差し込む。はじめは、理解の及ばない悲しさと苦しさと、恐怖が支配する世界だった。それから姿の見えぬ己の中のそれに絶望と名前を付けた。同時に飽くなき希望を求める痼疾とも決別し、自分の道を歩み始める。気付かぬ間に一歩ずつ、前に進んでいた。
そして、この瞬間もまた一歩を進む事を自分が求めている。
「あたしには、絶対に出来ないもの。でも。それもおしまい。あたしも含めて皆、望んでない。もう、英雄譚何て古臭いの流行らない。主人公の心が引き裂かれるばかりで不幸の連鎖に巻き込まれるお話、詰まんない。それよりもっと、面白いお話、いっぱいあるわ。それに色んな素晴らしいものを貴方は、あたし達に見せてくれた」
最後の壁が崩れ落ち、まだ見ぬ世界が眼前に広がった。
やっとだ。やっと始まりの地に辿り着いた。此処から全てが始まる。
「そんなたいそうなもんじゃない」
「いいえ。これからも沢山、描いて見せてよ。貴方の見ている世界を」
忘却の彼方にあった情動がランディの心を揺さぶる。初めてではない筈なのに。揺らぎの処理が追いつかない。話し掛けられているのに言葉が見つからない。
「……」
「そんな事言われてもって顔しないで。きちんと貴方を見てる。背景のない真っ白な画布に一人描かれたそのままの貴方を。だからその真っ白な画布を黒く塗りつぶさないで。貴方が見えなくなっちゃう」
そっとランディの頬に寄せられる真っ白な手。
「他の色を知らないのならあたしが教えてあげる」
その一言と共に涼しげな目元から筆舌しがたい艶麗さが漂う。息をのむランディ。予め仕掛けられていたかの様にその言葉が引き金となり、自然と吸い寄せられる形でフルールの肩をゆっくりと押し倒して椅子の上に横たわらせる。
「ちょっと……いきなり何よ?」
「―― 今のは、絶対に君がいけないと思う」
長椅子の上で艶やかに広がる髪と下から見上げて来る挑発的な表情がランディを煽る。
浅い呼吸と共にゆったりと上下する胸元。その余裕をランディは、奪い去りたくなった。
「良い子にしてると疲れるじゃない。偶には、悪い子にもなりたくならない?」
「洒落にならないよ、その冗談」
身を乗り出し、覆いかぶさると一気に顔を近付けて額と額を軽く突き合わせ、すごむランディ。互いの生暖かい吐息が肌に触れる程の距離に居てもフルールの牙城は、揺るがない。
「まあ、怖い。何する心算?」
「今まさに揺れ動いてるところ」
「男の性と大人の性の間で?」
「そう」
真顔で最後の最後にランディはしり込みをする。
情けないランディに思わず、噴き出すフルール。
「意気地なし」
茶目っ気たっぷりにフルールは言う。未だ、自分が敵わないと知り、表情を和らげるランディ。そんなランディへフルールは、続けざまに問い掛ける。
「ランディ。貴方は、鶏が先か、卵が先か。どっちが正解か、分かる?」
「また、古くから沢山の人を悩ませてる問題を持ち出して来るね……今までは、鶏が先だと思ってた。それが大前提だとね。けど、今は卵が先でも良いんじゃないかとも思ってる」
「ほんと、単純」
「全くだ」




