第傪章 ケーキと狼の王 13P
「無理な時は、きちんと言う。今は―― まだ、大丈夫」
「えっ? あっ!」
そう言うとランディは突然、少し強引にフルールの手を引いてやんわりと抱き締めた。線の細い体を強く引き寄せる。いきなりの事で動揺したフルールは、驚きの声を上げる。それからゆっくりとフルールの頭の方へ手をやり、撫で始める。
暫くの間、時が止まり、風の音も町の喧騒も掻き消され、二人だけの世界が続いた。伝わるのは、互いの左側に存在する強い胸の鼓動だけ。
「ありがとう。君のお蔭で俺は、まだ立って居られる」
「いきなり何よ……」
フルールの長い髪に顔を埋め乍らランディはそっと耳打ちをした。柔らかな髪から漂う花の香りがランディの鼻を擽る。戸惑いつつもフルールも拒むことなく、ランディの腰へ手を回した。今のランディにとってこれ以上に感謝の気持ちを最大に伝える術はない。もっと、小粋な気持ちの表し方もあったかもしれない。されど、どれだけ不器用でも気持ちを真っすぐに伝える事に特化した一番の手である。偶然の産物だろうと、大事な時に何時も親身になって寄り添い、手を差し伸べてくれるフルールには、感謝しきれない。
「絶対にだから……ね」
「ああ、約束する」
ゆっくりと離れて互いの顔を見やる二人。弱々しく微笑むランディと顔を真っ赤にしたフルール。急に気恥ずかしくなったランディは、頬を人差し指で搔いた。一方、フルールは、伏し目がちになって手遊びを始める。以前よりも複雑になって行く二人の距離感。近いようで遠く。遠いようで近く。手を伸ばせば届くけれども触れようとすれば、空を掴むばかり。
もどかしさが増えるばかりで気持ちの処理が追いつかず、居た堪れなくなる二人。
その思いにまだ、名前はつかない。
「赤くなって可愛いね、フルール」
「っ! 誰のせいだと思ってんのよ!」
気まずさを紛らわそうと、ランディはフルールをからかうと、いじらしく背伸びをして食って掛かるフルール。途端にそれまで漂っていた甘い雰囲気が消散し、いつも通りになる。
「俺の所為かい? 君ならこんなの慣れっこだろう」
「あたしを有象無象の尻軽女と一緒にしないで頂戴」
頬を膨らませてそっぽを向くフルール。ランディは、捻くれたフルールの手を取り、細い指に絡ませながら柔らかい掌の感触を慈しむ。この感触を決して忘れない様にしっかりと記憶に刻み付けた。この小さな掌が町にランディを繋ぎ止める大切な楔の一つなのは間違いない。幾多の戦を共に切り抜けた腰にある相棒よりも心強い味方だ。だからこそ、新たに芽生えた己の望みも彼女に託せるような気がした。
「もしさ……」
「何よ?」
膨れ面のフルールは、上目づかいになってランディを睨む。これ以上、冷やかされたくないのだろう。虚勢を張るフルールへ微笑みを絶やさず、ランディは、一呼吸を置いてから言葉を紡ぐ。それは、あまりにも悲しい願いであった。
「もし、何かが引き金になって俺が本当の本当に絶望して二度と立ち上がれなくなって…全てが駄目になったらさ―――― 最後の眠りへ誘ってくれるのが君だったら良いなって」
「そんな事っ! 絶対に許さないっ!」
寂しげなランディの世迷言を聞き、目を見開いて烈火の如く怒るフルール。聞けば誰もが同じ反応をするだろう。先程まで互いの思いを交わし合ったのであれば、尚更だ。前を向いて欲しいと祈った結果がこれでは、あまりにも救いがない。ましてや、ある時は、誰かの助けになろうと奔走し、進んで戦場に赴いた。またある時は、勇気とは何かを人に説き、生きる事に意味を見出せなかった者へ新たな扉を指し示した。誰も悲しまぬよう、奮闘したその張本人がやむを得ず、全てを捨てて死を選ぶ必要があるとは、何とも皮肉な話だ。そんな未来があってはならない。だからフルールは、抗って欲しいと首を横に振る。
「可笑しな事を言って申し訳ない。本気にしないで」
「冗談でも……言わないで頂戴。何度もあたしを悲しくさせないで」
「ごめん」
怒りを通り越して途方もない悲しみがフルールの胸を突く。フルールは、ランディの襟元を両手で掴んで頭を押し付け、行き場のない思いの丈をぶつけた。衝撃でランディの腕は、力なく垂れ下がる。これだけの悲痛な叫びを耳にすれば、もう何も言えまい。
「もう、絶対に言わないで……約束よ?」
「ああ、約束する」
襟元から手を離し、胸に顔を埋め、鼻を啜りながらくぐもった声でフルールは、呟いた。一方、ランディは無感情に星が瞬く曇りなき夜空を見つめ続ける。考えを改めようと奮闘していた。そして探している。耐えがたい絶望さえも乗り越えられる一筋の光を。
「さっきの言葉、本気だったでしょ。言葉にならない程、頭の中がごちゃごちゃしてるのは―― 凄く分かった。きちんとあたしにも伝わったわ。本当は、その時に言わなくちゃいけない事、言えなかったんだもんね。苦しいのも吐き出せないのも当然よ」
フルールは、ランディを宥めすかす。ランディが言い出せない理由をフルールも薄々、勘付いていた。
確証に至ったのは、偶然ではない。これまでのランディを見て来た結果だ。
「大丈夫。何時か吐き出せる時が来るから焦らないで」
胸の内を言い当てられ、驚きのあまり言葉を失うランディ。
やっと捻りだせたのは、保留の言葉。
「……君の言葉、心に留めて置く。もう、帰るよ。お休み」
「お休み。気を付けて帰って」
「君もね」
別れの挨拶をしてランディは、逃げるように話を切り上げ、この場を去った。
その後ろ姿をフルールは、町に紛れるまでずっと見守る。
「しっかりしないと……」
町中を歩きながらランディは、己の頬を叩く。
生きる事を渇望し。誰の為でもなく、自分の為に。
最後まで抗う事をこの時、固く誓った。




