第傪章 ケーキと狼の王 9P
「どうしたの? ランディさん」
「迂闊だった。これだけ近づかれていた何て―― 二人とも……木に登ってこの外套を頭の上から被るんだ。絶対に中から出ては駄目だよ?」
ランディは、双子を引き連れて近くの大木まで移動すると、外套を渡した。そして、戸惑うばかりの双子を急かして木に登らせようする。訳が分からない双子には不安が募る。
警戒するランディの袖を引き、ヴェールは問う。
「なっ! きゅうにどうしてっ!」
「木々の間をゆっくり見てご覧……何か、光っているだろう?」
「えっ―― あれ、ぜんぶが……目?」
ランディの指摘を受けて双子が目を凝らして木々の間を見て見ると、所々に小さな無数の光があった。ぼんやりと不気味な輝きを放つ光源は、それぞれが一対になっており、不自然な点滅を繰り返しては時折、無作為な軌道を描く。それら全てが目である事を双子が理解するには、さして時間を要さなかった。
「意図は、分からない。だけど、このままずっと見られているのも薄気味悪い。俺は、ちょっと様子を見て来る。半刻しても俺が帰って来れなかったら……分かるね?」
「でもっ!」
「大丈夫。万が一の話だから。必ず帰って来るさ」
必死に引き止めるヴェールへ優しく微笑むランディ。恐らく、既に囲まれており、何か策を講じなければ、状況は悪化の一途を辿る。現状を鑑みれば、襲って来る様子が無いので最適解は、ランディが囮となる事。この場から監視者を遠くまで引き離し、煙に巻いた所で双子を迎えに行ければ、上出来だ。無論、ランディを追って来ない場合もあり得る。それも承知の上。この状況下でも対策は、講じられる。また、相手の目的が恐らく、自分自身であると、ランディには薄々、気付いていた。
「君たちとの約束は、きちんと守るよ。だからお願い」
「わかった……」
「……まってます。だからかならずっ!」
「うん」
震える双子がゆっくりと、木を登り、外套を上から羽織った所まで見届けると、ランディは少しの間、目を瞑って集中する。準備が整い、ランディは、肩掛けの鞄と小銃を大木の根元に置いた。最早、牽制は意味を成さない。少しでも動きが軽くなる様に腰の剣だけを携えて目の前に広がる鬱蒼とした針葉樹の森へ足を踏み入れた。
「さて……『虚ろなる神』と名を冠する貴殿が態々、何故……こんな田舎町付近までお出でになられた? 事と次第によっては、私もこの剣を抜かなければならない!」
少し奥まで行った所でランディは、立ち止まると大きな声で薄暗い森に潜む何かへ問い質した。叫んだと同時に張りつめた緊張感がランディを襲う。今、四方八方から数えきれないほど多い威圧がランディへ集中している。その威圧にランディは、剣を鞘から抜いて答えた。今は、鈍い光を放つ相棒だけがランディの味方だ。暫くの間、風に揺れる木々の音だけがこの場を満たす。待てども返答がない事へ苛立ちを覚えたランディは、怒りを露わにする。
「返答はなし……ならば、引き連れている貴殿の眷属を残らず、葬れば答えてくれますか!」
煽りへ呼応して.体の芯に響く重い地鳴りと共に大きな影が近づいて来た。脇からどっと汗が湧き、その雫が体を伝って落ちて行く感覚がランディに現実を実感させる。額にもうっすらと汗が浮かび、寒気が体を襲う。剣を握る手も勝手に震えだした。
「もう、二度と見たくないと思っていたのに……悪夢だ」
ランディの目の前に姿を現したのは、周りを取り囲む木々にも匹敵する程、大きな灰狼。
大きく開けば、ランディでさえ簡単に飲み込めそうな口。大自然の中で鍛え上げられた体に一切の無駄は無い。鋭く研ぎ澄まされた瞳には、相対する者に畏敬念を抱かせる。威風堂々とした佇まいに思わず、ランディは呟いた。
『そう、構えるな。吾輩も一戦を交える心算は、毛頭無い』
ランディの頭に直接響く人ならざる低い声。灰狼は、言葉を発する事無く、思念の伝達により、ランディへ話し掛けて来たのだ。超常の相手を前にしてもランディは、臆する事無く、堂々と礼節を貴び、対応する。
「やっと答えて下さいましたか……お久しぶりです」
灰狼を前にランディは、剣を鞘に納め、恭しく頭を垂れた。
『貴様と合間見えたのは、昨日の事だ。さほどの時は、経って居らぬ』
「私と貴殿では、流れる時に対する感覚が違いますからね。太古の昔から生き永らえる貴方にとって一年は、確かについ昨日の事でしょう。それで……ご用件は?」
『眇眇たる用向きだ。時に『神剣』が我が棲家を土足で踏み躙ったのは知っておるか』
「はい、風の噂で耳にしました。貴殿の討伐が目的でしたが……失敗に終わった事も」
灰狼の問いにランディは、すかさず答えた。以前、ルーとの会話で耳にしていた内容でその後の経過も新聞等で情報収集を欠かさず、遠征が失敗に終わった事も知って居る。
『あれは、久方振りに心が躍る愉快な宴だった。貴様もおれば、弥が上にも血沸き肉躍る戦となっただろう……誠、口惜しい。後世にも名だたる大戦だ』
さも愉快そうに語る灰狼を前にランディは、首を横に振る。
「是が非でもご遠慮したい。今でも忘れられない……一年前のあの日。任務中に偶然、顔合わせした貴殿と派手な激闘を繰り広げ、逃げ延びただけでもう充分です」
『何をのたまう? あれは、貴様が吾輩を下した戦いだ。勝ち逃げが許されるとでも?』
「最長でも四、五十年。貴殿から逃げ切れば、私の勝ちです」
『詰まらぬ男だ』
軍属だった当時、一度だけこの灰狼に出くわした事がある。戦友と共に辛くも魔手から逃れた嫌な記憶だ。出来れば、二度と目にしたくなかった悪夢が態々、自分を訪ねて来たのだから皮肉の一つでも言ってやらなければ、気が済まない。
「本題に入りましょう。久々の血の匂いで胸を躍らせる貴殿が、その胸の高鳴りを鎮める為、単純に王国中を行脚していた訳ではありますまい?」
この様な雑談をする為に灰狼が配下を連れ立って姿を現す訳がないと、ランディは分かって居た。何としてもその真意を確かめる必要があった。事と次第によっては町に危害が及ぶ可能性もあり、そんな事態は、是が非でも避けねばならない。
『そうだ。あの戦では、物足りない。もっと、熾烈な闘争を欲している。だからこそ、貴様の顔を拝みに来た。あの日、感じた緊張感、死と隣り合わせの極限状態を思い出す為に』
灰狼の求めに答え、ランディは己の瞳を蒼く染める。すると、ランディを中心に蒼い光の柱が瞬時に姿を現した。天を突く光の奔流に呼応して森中が一斉に騒めき、大地も打ち震える。激しい輝きの奔流に身を置くランディの蒼い瞳に感情の一切を映さず、先程までの動揺を微塵も感じさせない。武神の如く、神々しい力をその身に纏い、神色自若を体現するランディを前に灰狼は、毛を逆立てて喜び、思念の声を震わせた。
『そうだ、その瞳だ……暗闇の中でも冷たく煌めく一対の蒼い不気味な瞳。そして、吾輩の背丈をも超える膨大な蒼いうねり。まだ、衰えておらぬ様で何より』
「満足、頂けましたか?」
『満足だ。もう良い。これ以上、目の前にしては、咆哮を抑えきれん』
灰狼は、牙を剥きだして必死に己の欲望を抑える。その口元には、牙と牙の隙間から靄の様な黒い吐息が漏れ出し、今にもその力が解放されようとしている。制止を受け、ランディが大きく息を吐くと瞳の色ももとに戻り、光の奔流も弾かれるように霧散して行く。
『だが、真の用向きはこれではない。貴様にとっても良い話を持って来た』
「良い話とは?」




