第陸章 終わりと始まりの鐘 5P
エグリースは、唐突に立ち上がって大きく伸びをする。そして、書斎内をゆっくりと歩いて凝り固まった筋肉を解した。座り疲れたフルールも机の上で頬杖を突き、姿勢を崩す。ランディは、冷めきった紅茶を一気に飲み干す。
「その通り。如何すれば、彼女のご両親に認めて頂けるか、あらゆる手立てを考えました。単純にお金を稼いでご両親が心配しないくらいの環境を作ろうとか、己がこの家に婿養子として入ろうかとも。ただ、どれも決定打に欠けていました。恐らく、ワタクシが想い悩んでいるのを彼女は、察知したのだと思います。ある穏やかな陽気の日、オネットの部屋にて。窓辺の椅子に座り、外の風と戯れる彼女から言われました。『何か悩み事でもあるの?』と」
「どうせ、貴重な逢引の時でも難しい顔して如何にも考え事をしていますって顔……してたんでしょ? 何となく、分かります。ランディもそうだから」
「俺にそんな癖あった? 気付かなかったなあ……」
「自分って、他のヒトから見て貰わないと、分からない事っていっぱいあるわ。詰まんない癖とかね。まあ、ランディは顔に字でも書いてあるくらい、顕著だけど」
フルールの指摘に思わず、自分の頬を撫でたランディ。
「意外な共通点です。君もワタクシと同じようにわざわざ、回り道をして苦労する性格かもしれません。まあ、若いうちから苦労は買ってでもしろと言いますね」
「買わなくて良い苦労って世の中にはあると思う」
フルールは、エグリースの持論を真顔で否定する。気まずいエグリースは、咳払いをして茶を濁す。フルールの皮肉に慣れているランディは、特に気にしていない。
「ごほんっ……ワタクシは、己の考えを見透かされたと思って動揺しました。同時にワタクシの事を彼女は、どう考えているのだろうかと一抹の不安を覚え、答えに詰まる始末。何せ、恋人らしい事何て、殆どして来なかったのですから。立ち尽くし、血の気の引いた顔をした不審なワタクシを見て彼女は、心配して目の前まで来ると、右の手をワタクシの頬にそっと添えると微笑みました。そして、『大丈夫、私が居るから』と言われた時、想いが溢れ出て愛おしさで胸が一杯になったのです」
「肝の小さいエグリースさんでもきちんと男気を見せたんですよね」
「今の悪口は、聞かない事にしておきますよ……ええ、柄にもなく添えられた右手をそっと、両手で包み込み、跪いて婚姻を申し込みました」
「何て言ったんですか?」
「確か、恋人らしい事何て、殆どなかったかもしれないけど……君なしの人生何て考えられない。一緒になりませんかとか、何とか。細かい内容は、忘れました」
「深く掘り下げないでおきますね。二人だけのヒミツって事で」
腕を組んで偉そうに頷くフルールと、愈々、終わりが見え始めた話にランディは、項垂れる。エグリースは、フルールがランディから取り上げた煙草を掴むと、一本取り出し、火をつけて珍しく吸い始めた。そして、ランディにも勧める。フルールは、良い顔をしなかったが、ランディも受け取り、煙の柱が二本上がった。
「……もう、大団円で良いじゃないですか? 無理です、本当に無理」
「そう言う訳に行かないのが世の中の常ですよ、ランディくん。オネットは、頬を真っ赤に染めると、そっと頷いてくれましたよ。これがワタクシの人生最大の絶頂期だったと思います。彼女のご両親の説得には、時間を要しましたが、二人できちんと向き合い、了承を頂き……そして、互いの距離が零に感じられるくらいの関係となったのです」
煙草の煙が目に染みたのか、エグリースは眼がしらを指で押さえる。その動作は、何故か止めどない悲しみに耐える姿にも見えた。鼻から大きく息を抜いて目頭から手を放すと、エグリースは、苦しみを隠して寂しそうに笑う。
「只、その幸せも長くは続きませんでした。彼女の容態が少しずつ悪化して行ったのです。日に日に弱ってベッドで過ごす時間が増えた彼女との時間をワタクシは、何よりも大事にしました。そんな折、オネットからお願いをされました。式を挙げたいと」
あからさまに雲行きの怪しくなった所でフルールは、表情は、硬くなる。話を聞いている内に感情移入が深くなり、自然と両手でスカートをぎゅっと握りしめてエグリースの言葉に只管、耳を傾けるフルール。ランディは、ポケットから手拭いを取り出すと、さり気なくフルールの前へ置いた。
「体調を考慮してもう少し元気になってからでも良いのではと、ワタクシは言いましたが、彼女は、頑として首を横に振るのです。恐らく、自分の死期を悟って居たのでしょう。ワタクシは、彼女の父上と母上と相談し、屋敷で幾人か、人を呼んで小さな式を挙げる手筈を整え、彼女と晴れて結ばれたのです」
何故か、目を瞑ってエグリースは、胸元に輝く十字架と一対の指輪を右手でそっと包み込み、握りしめる。瞳の端に涙を浮かべるフルールと、片手で顔を覆い、落胆するランディ。
「真っ白なドレスを纏い、笑顔を浮かべる彼女は、とても美しかった」
書斎机の引き出しから古ぼけた小さな木製の写真立て取り出して二人に広げて見せるエグリース。大切に保存されていた写真は、椅子に座るあどけなさが残る若い女性と今よりもずっと若いエグリースが寄り添って立つ写真であった。白黒の写真の中ではにかむエグリースは、上品な燕尾服を纏い、髪は全て整髪剤で纏めて後ろに撫でつけ、今のエグリースから想像できない位な好青年であった。椅子に座っている女性は、ほっそりとした体のシルエットが際立つドレスに身を包み、髪は優雅にシニョンを結い、晴れやかに笑っていた。
写真を手に取り、フルールは真剣な表情で見入る。ランディも隣から覗き込む。
「それがほぼ、最後の思い出です。婚姻後は、屋敷に住まわせて頂き、ひと月経った所で彼女は、唐突に旅立ちました。永久の離別は、呆気ないもので短く幸せな結婚生活でした」
長きに渡る追憶は、唐突に終わりを迎えた。最後の締めくくりは、あっけなく儚い。
堪えきれず、静かに泣きはらすフルールにランディは、そっと手拭いを差し出す。そのまま、ランディは大きく息を吐いて天井に視線を向けた。エグリースは、二人に見せていた写真立てを手に取って引き寄せ、慈しむ様に写真を撫でる。哀愁の漂うエグリースへかける言葉がランディには見つからなかった。暫しの間、嗚咽と小さく鼻をすする音が書斎を支配する。
「其処からは、昨日の話に繋がります。当時、絶望したワタクシに義父、つまりはこの町に滞在していらっしゃるシャンドリエ司教が道を示して下さり、今に至ります。ご清聴、ありがとうございました。以上が、ワタクシの胸に長い間、仕舞っていた過去です」
手拭いに顔を埋めて泣き止まないフルールの背中を優しく摩るランディ。燃え尽きかけた煙草の火を揉み消してエグリースは、ランディを見つめる。一人で二人分の悲しみを背負い、生きた男にランディは、心の中でひっそりと敬意を表す。
「この際ですから……何か、気になる事があれば、お答えいたします」
「では、ふたつだけ。エグリースさんの首に掛けた十字架と一緒に通してある対の指輪は」
聖職者にしては珍しい十字架と一緒に指輪を首にかけていた理由は恐らく。
「そう、婚姻の時に交わした指輪。これは、ワタクシにオネットが残してくれた大切な宝物」
「やはり……そうでしたか」
今も尚、胸元で褪せる事のない輝きを放つ銀製の十字架と指輪は、エグリースの信念と、大切な思い出が詰まった掛け替えのない唯一無二の宝物であり、大切なヒトと生きた証であった。
「これは、お節介かもしれませんが……人生の先達として助言を。ランディくんもフルールさんももし、心から愛おしいと思える方が居るのならその方との時間を大切にして下さい。もし、気持ちが伝えられていないのならば、伝えるべきです。人生は、たった一度きり。ワタクシの様な後悔を絶対に残さないで下さい」
「為になるお言葉、ありがとうございます。胸に刻みます」




