第伍章 固執の頂に待つは、痼疾 3P
司教の言葉を受けてエグリースは、鼻で笑う。
「腹の内で何を考えているか分からない不埒な輩を抱えるよりもずっと良いでしょう。自身の利益を優先してお上の言葉に何事も笑って傅くよりは」
「そう言った輩の方が手玉に取れて扱いやすい。私にとっては、その様な企みも児戯に等しいからな。寧ろ、何を考えているか分かり、己の矜持に殉じられる方が難しいのだ。この件は、私の立場として大きな局面から見えれば、些末な事だ。されど、彼は局面等には、見向きもせず、一つの目的に特化しているから強い。だから折れてやりたいと思ってしまう」
司教は、目を瞑って悩ましげに語る。如何やら、司教でさえも匙を投げたくなる位に悩ましい案件である事がヌアールにも分かった。そして、簡単にランディへ靡けない事も。
「此度の件にお上の意向はなく、貴方様の裁量でどうとでも出来てしまうからでしょう?」
「君の言う通りだ。でも今回は、私の意思ではなく、もっと強い思惑が動いているのだ。ランディくんと天秤に掛けても其方に傾いてしまう程の」
「ならば、裏で糸を引いている人物に打ち勝つきっかけを与えてやっても良いのでは? 今のままでは、公正ではありますまい。司教様が直接、手を下す必要ありません。当事者同士で勝手にやらせれば良いのです」
素直に黒幕が居る事を認めて頷いた司教。饒舌に語る司教にまだ、深く切り込めると踏んだヌアールは更にずけずけと持論を投げ掛ける。ヌアールも無策に無礼を働いていた訳ではない。司教の寛容さを推し量り、何処まで情報を引き出せるか、受け持った役割を果たすべく、話し相手を務めていたのだ。何分、相手は、何千年も自身の存続の為に問答を繰り返して理屈、屁理屈を捏ね繰り回して来た化物の集団である。気を抜けば、己の目的を言の葉に巻かれて目的を見失ってしまう。煙に巻かれまいと、ヌアールなりの手回しであった。
「ランディくんの提案を聞いた時点で頭に過ぎって居た。一度、上甲を差し戻しても良いのではと。急な話であった為、私もゆっくりと考える時間が少なかった。此方に赴いて考えを聞いた所で説得もしようと思っていたのだが……意思が固かった」
「逆に何も知らない立場の人間であれば、無粋に相手の領域にも入って行きます。寧ろ、その方が相手の感情へ直に訴え掛けるから本音も引き出しやすい」
「間柄が近しい程に……内情を知り過ぎているが故に話辛い部分もある。私もエグリースを言い包められないのだ。弱みを握られているのでな」
しかしながらヌアールが身構えて相手の一挙手一投足を見定める必要もない位に司教は、簡単に口を割る。ランディが憲兵に対して優位に手合わせを進めているのと同じくらい、ヌアールが思った以上に上手く事が運んでいる。何か裏があるのではと、穿った見方をしてしまう位に。それでも何故か、司教から邪な印象がない。本当に困っているからこそ、藁にも縋りたい所と言うべきか。
「名前を出しても良いのですか?」
「事の顛末を知って居るのであれば、ランディくんや君にも想像がついていたのだろう? この下らない寸劇の脚本を書いた本人が。最早、隠し立てする必要もない。恐らく、ランディくんは、予測の確証を得てその先に待つ理由が聞きたいのだろう。固執の先に待つ痼疾を」
「よく分からないですけど、こだわりが強い者を部下に持つと大変ですね」
「私も本当の所では何も分かって居ない。恐らくだの、多分だの……不確定要素が拭いきれない。一つ、言える事があるとすれば、あやつには……生の執着心がない。掛け替えのない者を亡くし、死に焦がれている…………呪いにも似た妄執に取り憑かれているとだけ」
ランディが考えていた通り、ヌアールは、司教から言質を取り、根が深い事を悟る。
これ以上は、関わるべきでないと経験則から来る己の警告を素直に受け入れてヌアールは、引き下がる事にした。後は、ランディ自身が直接、聞けば良い。
「聞いているだけでも目が回りそうです。厄介ですね。これ以上は、関わらない様にしておきます。面倒事は、御免ですから」
「決断の早さには、脱帽するよ。無論、医師の仕事は、目に見える疾病の症状へ対処や根治。怪我の治療が本分。心の病を癒すのは、専門外であろう。下手に手を出して一人に係り合って根治にまで付き合っていれば、君の本業にまで差支えが生じる」
「ご配慮頂き、どうも」
「さて、向こうも終わりが見えたようだ。そろそろ、この下らない問答は、終わりにしよう」
「はい」
ランディと憲兵の手合わせも終わりが見えた。片膝をついて剣を地面に突き刺し、辛うじて左手で剣の握りを掴んでいるものの、右手は負傷した腹部に当てていた。あれからランディは容赦なく、損傷を与えた腹部を執拗に狙い、時折、憲兵から隙を突かれて一撃、二劇と損傷を受けながらも着実に相手の心を折った。思惑通りに負傷した個所を守り、他が疎かになった所で胸当てに向けて一太刀を浴びせたり、足を狙って蹴りを入れて足元を崩したり、策を弄した。ランディの辞書に卑怯と言う文字は無い。勝てば官軍、負ければ賊軍。後に語られるのは、戦いの内容ではなく、勝敗の事実のみ。
正々堂々とは、偽善者が語る世迷言だ。
「これで終わりにしましょう」
「はあはあはあはあ……」
「久々に伸び伸びと体を動かしました。今は、とても清々しい気分です」
「勝敗は、決まった。オルドルくん、ご苦労。よくやってくれた」
一頻り暴れた結果、辺りは草の青臭さと土埃の匂いがたちこめていた。陽は丁度、傾いて夜の帳が支配する。頬の裂傷から血を滴らせながら息を荒げる憲兵。されど、瞳に宿る闘志は失われていない。対して目元に大痣が出来たランディは、右手に剣を握りながら大きく伸びをして晴れやかに笑う。司教は、外套の腰辺りからランタンを取り出して火を付け、ゆっくりと二人の所へと向かい、勝敗を宣言した。
「まだ……まだです。動けます」
「これ以上は、命のやり取りになるだろう。君もランディくんにも生殺与奪の果し合いは、当初の予定になかった筈。君がランディくんの腕試しを全うした事で目的は果たされた」
「されどっ―― 私にも」
「憲兵とは言え、軍属の端くれ。矜持がある事も理解している。だが、その矜持は本来、国内の秩序へ向けられるべきであって私的な闘争の勝敗に向けられるべきではない。君の本来の任務は、彼の様な一国民を守り、正すのが目的であろう? それを履き違えるな」
「はい―― 畏まりました」
ランディが見届ける中、司教は、憲兵の傍らで膝を付き、肩に手を置いて宥めすかす。思う所は、それぞれある。けれども既に良くも悪くも結果が出てしまっている。譲れないものは、誰にでもある。だが、此処で躓いていては、話が先に進まない。
「君を焚き付けてしまったのは、私だ。本来ならば、君から叱責されるべきであって窘める立場にはない。されど、私はこの様な無益な諍いで君と言う人材を失いたくない。君の代わりは、誰も居ないのだから。だから此処は、私の顔に免じて鉾を収めて欲しい」
「いえ。元より……私の判断に誤りがあり、無様な姿を。勝敗の有無は、抜きにして戦い方を見極めるべきでした。人を相手にするのではなく、獣と対峙するものだと」
「確かに彼は、闘争本能に身を任せていたな。彼はまっこと、狼のようだった。狡猾に君の隙を伺い、喰らいついたら離れず、速さを武器に執拗に追い立てて深く牙を突き立てる」
司教は、憲兵の瞳を真っすぐ見つめて頷いた。思いの丈を吐き出してようやく、落ち着きを取り戻した憲兵。穏やかに微笑んで司教は立ち上がり、憲兵へ骨ばった手を差し出す。




